明光寺(福岡市)野村望東尼の墓

 

読めない名前(笑)

野村望東尼のむらぼうとうにのことは、

高杉晋作を平尾山荘で匿った人として、

また、高杉晋作の辞世に続けて、

下の句を詠んだ女性として、

その上辺だけかじっていましたが、

「望東尼」の読み方さえ

知りませんでした・・・

理由は、

調べる程の興味が無かったからです(汗)

ところがこの夏、

望東尼さんは僕に「猛アプローチ」を

かけて来られました(笑)

海軍航空隊玄海基地を調べるため

訪問した志摩歴史資料館で、

偶然出会った企画展「野村望東尼伝」です。

ここで僕は望東尼さんに没頭してしまい、

見事、相思相愛となり?

彼女の足跡を辿る旅が始まったのです(笑)

参道

明光寺参道の印象は、

ひっきりなしに来る飛行機です。

飛行機マニアならば、

終日明光寺の参道にいても

飽きないかも知れません(笑)

入口。

この時、いきなり飛行機の歓迎が・・

JALグループのJ-AIRですね!

7年近く前の高知旅行で利用し、

帰りの便が欠航となり、

代替えの特急と新幹線に乗れた

超ラッキーな思い出が詰まった機体です。

お邪魔しま〜す!

まずは入口左側の慰霊塔に参拝。

少し行き山門に到着。

そしてここで歓迎してくれたのが、

こちらの飛行機です。

以前、大阪宮崎小松空港行きで

お世話になった

DHC8ーQ400プロペラ機です。

機内まで響くプロペラ音が、

前世?で乗っていた特攻機を思い出して、

テンション爆上がりだった妻(笑)

これが見られてヨカッタ〜!

完璧なお墓の案内。

山門手前側の鐘楼。

そしてまたもや・・・

飛行機!

機種は・・不明です。

なんか上ばかり見てますね(笑)

本堂前の境内。

榮姫遺髪供養塔

本堂手前を左へ。

多分お墓はこちらのような・・

墓域に入り、周囲を見渡すも、

野村望東尼の墓は見つからず、

その前に榮姫遺髪供養塔を発見し、

先にお参りすることに。

「黒田長政の正室

榮姫遺髪供養塔」の案内。

到着。

「榮姫遺髪供養塔」

以下、案内です。

「榮姫(えいひめ)・・大涼院

享年五十歳(1585年〜1635年)

徳川家康の姪

父は保科正直(武田信玄・武田勝頼に仕え、

先方衆として活躍

信長の死後は小田原の北条氏に帰属、

北条氏滅亡後は、徳川家康の配下となり

正式に高遠城主二万五千石の

大名に取り立てられています。)

母は多劫姫

関ケ原の戦いの前である

1600年6月6日、

保科榮姫(当時十六歳)は、

中津十二万石の黒田長政(当時三十三歳)の

正室となりました。

豊臣秀吉が亡くなった後、

黒田家との絆を強くしたいと言う

徳川家康の意向で、

家康の養女として黒田家に嫁ぎ、

化粧料として

豊後国玖珠郡領内に一千石を拝領

関ケ原の戦いで石田三成による

妻女人質計画があった際、

栗山善助・毋里太兵衛が大阪から脱出させ、

長政の領国である豊前国まで

逃れる事に成功しています。

徳川幕府の世になると

榮姫は「一門扱い」になり、

人質として江戸に逗留せずに

国元に帰ることが許可されるが

榮姫はそれを拒み、

終生、江戸に居続けたそうです。

長政との間には

嫡男、忠之(福岡藩二代藩主)

※幼少期に腸チフス罹患、

病気がちで蒲柳の質(ほりゅうのしつ)。

次男・・長興(秋月藩藩祖)

三男・・高政(東蓮寺藩藩祖)

長女・・徳姫(榊原忠次室)

次女・・亀姫(池田輝興室)」

黒田長政は、

豊臣秀吉の養女として嫁いだ

蜂須賀正勝(小六)の実娘、

糸姫を正室としていましたが、

離縁して榮姫を正室に迎え、

その後、黒田家と蜂須賀家は

犬猿の仲になったそうです・・

戦国時代に限らず

このような政略結婚というのは

多くありますね・・・

また、忠之さんの「蒲柳の質」とは、

虚弱体質を表す言葉だそうで、

僕は人生で初めて目にしました(笑)

遺髪塔に参拝。

「保科」の文字が確認できますね。

ちなみに家光さんの弟で、

高遠藩主から会津藩主となった保科正之は、

榮姫の父、保科正直の義孫にあたります。

(Wikipedia調べ)

野村望東尼の墓

ようやく望東尼さんのお墓へ。

後から気付いたのですが、

本堂手前の大蘇鉄の前に、

ちゃんと案内がありました(汗)

見逃していた案内。

納骨堂を通り過ぎると、

お墓はもうすぐそこです。

見えた!

到着。

「勤王歌人 野村望東尼」

案内を抜粋・要約して

書き出してみます。

■出生〜結婚

野村望東尼(=俗名モト)は、

文化三(1806)年九月六日、

黒田藩士浦野勝幸の

三女として生まれました。

彼女は十七才の時結婚しますが、

半年余りで離婚し、

二十四才のとき、野村貞貫と再婚しました。

望東尼と貞貫はともに歌が好きで、

福岡出身お大隈言道に入門し、

和歌を学び始めました。

望東尼四十才のとき貞貫の花鳥風月を友に

自適の生活を送りたいという希望により、

当時の平尾村の向かの岡に山荘を作り、

隠居したそうです。

■山荘時代

夫妻は自らの手で、

庭に桜、梅、楓あなどを植え、

池を掘った庵には言道や

その門人たちがしばしば訪れ、

風流な歌会が催されていたと

いわれています。

平尾山荘での生活は、

望東尼の代表的な歌集のひとつ

「向陵集」からもたどることができます。

平穏な生活は、望東尼が五十四才のとき、

夫・貞貫の死によって

終止符を打つことになります。

■勤王の道へ

貞貫亡き後、望東尼の生活は

大きく変化していきました。

貞貫の初七日が済むと、

博多の明光寺で得度剃髪し、

「招月望東尼禅尼」と言う

法名を授かりました。

1861年には、

宿願だった上京を果たし、

望東尼は愛国精神の自覚を強め、

京都に集う諸国の志士との

交流を深めました。

福岡に帰った望東尼の元には

京都の情勢を聞こうと、

平野国臣をはじめ、

筑前の勤王の志士たちが

来訪するようになり、

平尾山荘は幕末の志士たちの

隠れ家となりました。

長州の高杉晋作も一時難を逃れて、

山荘に潜伏していたそうです。

■姫島に流罪

1865年、福岡藩は勤王派を

一気に弾圧して処刑しました。

六十才だった望東尼も

玄界灘に浮かぶ小島・姫島へ流刑となり

牢獄で過酷な日々を送りました。

高杉晋作は、かつての恩義に報いるため、

姫島に救出の手配をし、

望東尼を脱獄させました。

■望東尼の最後

その後、

望東尼は下関で晋作と再開しますが、

晋作の体は病魔に侵されており、

翌年、望東尼は晋作の死を

看取ることになりました。

新作が死の床で筆をとり、

「面白き 事もなき世も おもしろく」

(面白いことのな世の中を面白くするには

どうしたらいいのだろうか)

と詠むと、望東尼が、

「住みなすものは 心なりけり」

(周囲の状況が

どうあるかということではなく

自分がどう思うかである、

それは心のおきどころ次第である)

と続け、それを見た晋作が

「おもしろいのう」と笑って

最後を飾ったと言われています。

晋作亡き後、1867年、

望東尼も六十二年の生涯に幕を閉じました。

「ひとすじの 道を守らば たおやめも

ますらおのこに おとりやはする」

(一途に信念を貫けば女性も

男性に劣りはしない)

この歌は、

若い女性に贈る歌として

「向陵集」の中で詠まれています。」

左端は夫、貞貫さんのお墓で、

その傍に寄り添うように建つ

小さな墓石が望東尼さんのお墓です。

志摩歴史資料館の企画展では、

「望東尼は、夫の墓石の傍らに

小さい自分の墓を立て、

自ら「望東禅尼墓」と刻んで

下ろした髪を納めたということです。」

このように記されていたのを

裏付けるかのような位置関係ですね・・

(当時から移転されているので、

完全形ではないとは思いますが・・)

参拝。

望東尼さんのお墓は、

終焉の地である山口県防府市の大楽寺と、

ここ明光寺の二箇所にありますが、

こちらは髪を納めたもので、

大楽寺の方が遺骨を納めたものかと

思われます。

夫、野村貞貫さんにもお参り完了。

これで一つ望東尼さんに

近づいた気がします(笑)

(続く)

 

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