六所宮(福岡県筑後市)前編
歴史の坩堝
筑後市犬塚に鎮座する六所宮は、
南北朝時代から幕末に渡り、
幾つもの「もの」や「こと」が体験出来る
「歴史の坩堝」とも言える神社で、
その興味深い歴史を
心ゆくまで楽しめたのは、
宮司さんはじめ、
氏子さん達手作りの
詳しい案内板のお陰と
心から感謝しております。
参道
四角形の境内には、
本殿、境内社、大クス、
羽犬塚恵毘須が、
コンパクトに配置され、
各所の参拝や見学は、
迷うことなく出来ます。
駐車場から境内全体が撮影できます。
シンボルの大クスが気になりますが、
こちらは参拝した後、
じっくりと楽しむこととし、
まずは社頭の一の鳥居前から
参拝スタートです。
柱は二段になった
肥前鳥居形式なので、
江戸時代後期のものでしょう。
奉納年がしめ縄に隠れ
確認ができませんが、
「甲辰」の文字が刻まれていますので、
天保15年(1844)または、
天明4年(1784)の
建立と推察します。
慶応二年(1866)建立の燈籠。
対になる左側の燈籠。
左右ともに台座の盃状穴には
コンクリで埋められている形跡が・・・
恐らく、安産祈願など、
盃状穴の意味を知らない人が、
見栄えが良くなると思って
善意でやった事でしょう。
導きの神様、
猿田彦大神。
手水舎。
久しぶりに見た手ぬぐいに感激!!
しかも柄杓だし!
これだけで、嬉しくなる単純な僕、
平常を感じられるって幸せだ~(笑)
そして、手水舎の柱には、
驚きの案内があります。
「大久保利通と真木和泉守保臣との会談」
内容を抜粋し書き出すと、
以下のようにになります。
「(場所 羽犬塚)
六所宮参道、
北隣の吉武助左衛門宅で会談
(主な会談者名)
大久保利通 真木和泉守
平野国臣 渕上郁太郎
1862年(会談した年)」
これに続き、
真木和泉守について、
久留米水天宮の宮司だった事や
尊皇攘夷の志士だった経歴が書かれ、
最後に、
1864 禁門の変で天王山で自刃
と記されていて、
以前、
水天宮に建つ真木和泉守の像や
蟄居場所である山梔窩、
京都、天王山にある
十七烈士の墓などを訪問した事を
懐かしく思い出しました。
(妻は多分忘れているでしょう・・笑)
大クスを左に見ながら
少し参道を進むと、
次なる案内に遭遇します。
(豊臣秀吉と羽犬塚の由来)
内容を抜粋すると下記になります。
「六所宮には、元禄十五年
(1702)に書かれた古文書
「六所大権現縁起」が納められ、
その中に「関白秀吉公薩州下向之時、
羽のある犬を召し給ふ」とあり、
羽犬の由緒が載っています。
それによると、
豊臣秀吉公が薩摩へ九州征伐の折、
羽を持つすばしこい犬を連れていたが、
途中この地で亡くなり、
塚を築いたというものです。
(後略)」
羽犬塚についての
古文書が現存しているのには、
かなりビックリですね!
羽犬塚駅の羽犬の像の説明には、
これと同じ説と、もう一つ、
秀吉と羽のついた犬の関係が
書かれていましたが、
古文書があるので、
こちらが有力かもですね(笑)
拝殿へ。
延享元年(1744)寄進の燈籠。
対になる左側の燈籠。
拝殿にて参拝。
御由緒など。
ここで注目なのが、
お寺から勧請された事です。
「熊野坂東寺より勧請、
坂東寺縁起によると、
「坂東寺に六所権現社あり、
これを昔百歳坊という人
霊夢によって勧請す。」とある」
江戸時代以前は神仏習合なので、
お寺に付属する神社を勧請することは、
一般的だったのでしょう。
六所宮の境内案内図。
このお陰で、
境内の散策は完璧でした!
古くなって色褪せていても
「ある」と「なし」では雲泥の差、
ただただ、有り難し!
是非、
ここに貼り続けて欲しいものです。
拝殿から幣殿、本殿へ。
距離を取れるし遮断するものもなく、
真横からの写真もバッチリ撮れます。
本殿に参拝。
拝殿前にてツーショット完了。
境内社
本殿参拝のあとは、境内社を参拝。
まずは、本殿真裏に建つ、
戦没者慰霊社(祖霊社)へ。
素晴らしい景観ですね!
花や木の手入れも綺麗にされ、
御英霊の方々への心からの哀悼と
このお社を大切にする気持ちが、
ひしひしと感じられます。
参拝。
次は、御社殿横に並ぶ境内社へ。
粟島神社。
参道の小さな鳥居は、
各地の粟島神社で
よく見られます。
参拝途中の妻は、
ご利益満載(笑)
物理的に鳥居をくぐれない僕は
見ただけなので、
ご利益は半分位かな?(笑)
猿田彦大神。
藤棚の奥には道祖神が鎮座。
やはり道祖神には、
「ナニ」がつきものです(笑)
素盞嗚神社。
水天神社。
天満神社。
天満神社の左にも
石祠があるので、一緒に参拝。
この後は、
六所宮で一番のお目当てである
日本最古の夫婦恵比須像などへ参拝します。
(後編に続く)