犀ヶ崖古戦場(浜松市)
一矢報いた家康さん
三方ヶ原の戦いで、
武田信玄に大敗した徳川家康。
しかし、一矢報いたという
逸話も残っていて、
それが「犀ヶ崖の戦い」です。
三方ヶ原から命からがらに
浜松城に戻った家康さんは、
城門を開け放ち、篝火をたき、
武田軍に
「これは何かの計略に違いない」
そう思わせ、撤退させます。
それを追うように夜討ちをしかけ、
犀ヶ崖に白い布を渡し、
橋のように見せかけたところ
武田の大軍がそれを渡り、
多数が崖下に落ちてしまったというのが、
この戦いの概略です。
家康さん、ただ負けただけじゃないのが、
凄いところですよね!
犀ヶ崖
ここには、
犀ヶ崖資料館もあるのですが、
そちらは後回しにして(笑)、
まずは、
実地調査からスタート。
ここは、犀ヶ崖公園として
整備されています。
「家康の散歩道」として、
浜松の各所に建てられている案内は、
初見参の僕らには、
実に分かりやすく有り難いものです。
犀ヶ崖の案内と石碑。
崖下を覗いてみます・・・
昔はもっと深かったそうですから
落ちたら、死ぬしかないでしょう(汗)
物見台から犀ヶ崖を眺める妻。
物見台から崖下を撮影。
ここから見える橋の欄干には、
こんな表示があります。
「布橋一丁目3」
コンクリ橋でも住所は布橋です(笑)
「三方ヶ原古戦場犀ヶ崖」の石碑。
崖に沿って散策。
「本多肥後守忠真顕彰碑」
案内を要約すると
以下になります。
「本多忠真は、徳川四天王の一人である
本多忠勝の叔父にあたる武将で、
三方ヶ原の戦いでは殿(しんがり)を務め、
この地で討死したと伝えられています。」
忠勝さんのおじさんも
勇敢だったんですね!
供養塔
ここには、
犀ヶ崖で亡くなったかたなどの
供養塔があります。
エントランス。
お地蔵様などへご挨拶。
墓石群。
この中の一つは、
有名人?のものです。
「ねずみ小僧 治郎吉の供養塔」
このように書かれています。
夏目次郎左衛門吉信の碑
次に、
妻が絶対に行きたいと言っていた、
夏目次郎左衛門吉信へ向かいます。
犀ヶ崖から道路の反対側、
木陰に見える石碑へ。
到着。
全景。
案内を書き出すと、以下になります。
「家康公の身代わりになった勇猛な家臣」
「夏目吉信は、1563(永禄6年)の
三河一向一揆の時に捕らえられ、
処刑されるところを、
家康公の寛大な処置により
助けられました。
以来この恩義を
忘れることが無かった吉信は、
三方ヶ原合戦の際、
主君家康公の身代わりとなって
敵陣の前に立ちはだかり、
討死したといわれています。」
今の世でも「裏切り者は許さない」
そんな風潮があるのに、
徳川家康の行動には、
常に「温情」を感じる部分があります。
当時の家康さんは、
夏目さんが、結局は命を持って
自分を守ってくれることになるなんて、
そこまでは考えていなかったでしょう。
でも、
人間の行動というものは、
いつしか思わぬ結果が
出るものなんですね!
石碑の文字は、十六代当主、
徳川家達(いえさと)さんの書で、
この方の書は各地で見受けられますが、
僕が一番覚えているのは、
小諸城、三の門の「懐古園」の扁額です。
ここで妻が、
「お墓でもないけど拝みたい」
そう言ったので、
数珠を持って参拝したのですが、
これを犀ヶ崖資料館の人に見られていて、
「さっきお参りしてましたよね。
あれはただの石碑ですよ・・・」
そう声をかけられたのです。
知っていたけど、
「あ~そうですね」と返しました・・・
まあ、僕たち的には
満足したのでOKでしょう(笑)
裏側にはその功績が書かれています。
本日のバス停
夏目さんの顕彰碑は、
バス停のすぐ前です。
「さいが崖」
バス停の名前も犀ヶ崖なんですね!
漢字が難しいから
ひらがなにしたのかな?(笑)