設楽原歴史資料館(愛知県新城市)後編
鉄砲にはあまり・・・
僕たちは、火縄銃などの
鉄砲にはあまり興味はありません。
無論、今現在の気持ちなので、
将来鉄砲マニアに変身する可能性は、
大いにあるでしょうが(笑)
という訳で、鉄砲の展示は、
正直、流して見ました・・・。
火縄銃コーナー
長篠・設楽原の戦いコーナーで、
大いに楽しませて貰い、
次は火縄銃コーナーへ。
多くの火縄銃の展示。
長篠合戦図は撮影禁止なので、
画像加工で消しています。
火縄銃の歴史。
その一項目に、
「1480年頃、
北ドイツ地方で火縄銃が作られる」
こう書かれています。
第二次世界大戦でも大陸間弾道弾や
誘導ミサイル、ジェット機など
驚異的な新兵器を
発明しまくったドイツ人、
その祖先たちも偉かったのでしょう。
鉄砲の生産地。
代表的なのは、
滋賀県の国友、日野、堺、
そして和歌山県の根来ですが、
全国的に生産していたようです。
変わり種の鉄砲。
その中で気になったのが
次の二つです。
「木砲」
木で出来た鉄砲ですが、
どちらも実用的ではなく、
左側のものは、
「数度の使用に耐えられない」、
右側の大きいものは、
「ほぼ用を為さなかっただろう」
このように説明されています。
右側のものは、
僕たちが3年ほど前、
山口県の下関市立博物館で見た
幕末、長州藩が「ダミー」として
海岸線に配置したものと
同じ形のようです。
こちらがその下関で見た木砲(模造品)。
そして、2つ目・・・
磁砲。
簡単に言うと、
陶磁器で出来た
「手榴弾」です。
戦国期に使ったのでしょうか?
真ん中の常設展示の部屋にも
火縄銃はじめ鉄砲がいっぱい・・・
僕たちのお腹もいっぱいに(笑)
こちらも鉄砲。
岩瀬忠震の部屋
鉄砲の部屋からさらに奥に行くと
岩瀬忠震(いわせ ただなり)を
紹介する部屋があります。
岩瀬さんはこんな人。
資料館前の銅像。
この銅像で、岩瀬さんが、
日米修好通商条約に
署名した人だと初めて知り、
気になっていたら、
資料館でのツートップの一角
だったという次第です。
パネル展示の
それぞれの説明を抜粋していくと
次のようになります。
開国の星 岩瀬忠震
「明治の文豪島崎藤村は、
名著「夜明け前」の中で、
岩瀬忠震の人物・功績を高く評価し
次のように書いた。
「嘉永時代、外国関係の
一大事変に当たっては、
幕府の上のものも下のものも
強い衝動を受けた。
その衝動が非常な任撰を行わせた。
三人の者が監察に抜擢せられた。
その一人が岩瀬肥後なのだ。
岩瀬肥後は名を忠震といい・・・・
心あるものはいずれもこの人を推して、
幕府内で第一の人とした。
(第一部四から引用)」
今年、小諸城で出会った島崎藤村さんが、
ここ設楽原で登場するとは、ビックリ(笑)
横浜開港の恩人ー忠震
「横浜港に近い本覚寺の山門前に
「横浜開港の主唱者
岩瀬肥後守岩瀬忠震顕彰碑」が
どしりと建っている。」
「半農半漁の一寒村に
開かれた横浜の港は、
以後内外の商人が集まり、
生糸、茶が有力な輸出品となった。
輸出入とも大きく発展し、
日本最大の港に成長していった。」
設楽家の歴史ー忠震の実家
「天正の設楽原の決戦は、
その領内が戦場となり、
設楽貞通は鳶ヶ巣攻撃隊に参加している」
「忠震の父設楽貞丈は、
分家した竹広設楽氏の8代目である」
生い立ちとー若き忠震
「設楽六か村の領主
設楽貞丈の三男として生まれた」
「23歳の時、同じ三河出身の
旗本書院番岩瀬忠正の養子となり、
その長女と結婚した。」
「その後、江戸幕府の学校である
昌平黌に入校、
(入校から8年後の
嘉永4年昌平黌の教授となる)」
「嘉永6年に、
忠震は御徒頭に任命されるが、
これは老中阿部正弘による
目付登用への伏線であった。
4か月後、異例の早さで目付に抜擢され、
海防掛となって、
外交の檜舞台に押し上げられた。
元号が、安政にかわった年のことである。」
開国条約の調印者ー忠震
「安政元年(1854)
幕府は下田に来航した
ロシアのプチャーチンとの
条約交渉の一人に、忠震を抜擢した。」
「5か国と条約調印
安政4年(1857)12月、
交渉の全権を命じられた忠震は、
外国奉行として
日米修好通商条約の調印をめざすが、
老中堀田正睦とともに交渉にあたった
条約勅許は朝廷に拒否された。
この苦悩を、
福井藩士橋本左内への手紙で
しのぶことができる。
安政5年(1858)6月19日、
ついに条約は調印された。
それから2か月、外国奉行として、
日蘭・日露・日英・日仏の
全ての調印を終えた。
ーー忠震、時に40歳。」
急展回ー左遷の忠震
「日仏通商条約の調印を終えた2日後の
安政5年(1858)9月5日、
忠震は大老井伊直弼によって
作事奉行に役替された。
外交の第一線からの追放であり、
安政の大獄の始まりであった。
翌安政6年8月には、
更に作事奉行を罷免、
「永蟄居」の処罰を受けた。」
「文久元年(1861)6月、
次男忠きよ(漢字変換出来ず)が
16歳で病死すると、
後を追うように、
7月11日、44歳の若さで逝去した。」
土佐藩の野中兼山のように
頑張って良い仕事しても
不遇の最後を遂げた偉人は多いもの。
忠震もその類に漏れず・・・です。
火おんどり
一番奥の小さなスペースに、
「火おんどり」のコーナーがあります。
実物大(多分)で再現。
これは分かりやすい!
火おんどりの案内。
約400年続く、
設楽原の戦いの
戦死者を弔う火祭りです。
三河花火
最後は通路で見つけた(笑)
三河花火です。
打ち上げタイプ、
手筒(手で持つ)タイプなど。
なんか先程火縄銃コーナーで見た
木砲に似ているような(笑)
詳しい案内。
今日の何だろう?
資料館の庭の一角、
目立たない場所で見つけたのが、
こんな石柱です。
囲いがあるのは、
大切にされている証拠。
下は埋まっていますが、
「天正十」、「三月」という文字が
刻まれているようです。
天正十年三月ならば、
武田勝頼が自刃して
武田氏が滅んだ時ですが、
何か関係があるのでしょうか?
気になりながらも、次なる目的地、
馬防柵のある
設楽原の古戦場へ出発です。