俊龍寺(山口市)
豊臣秀吉の供養塔
山口市の俊龍寺(しゅんりゅうじ)に
豊臣秀吉の供養塔が
存在する事を知ったのは、
1年ほど前でした。
ここには足利義輝、義昭兄弟の
供養塔もあり、
これらの供養塔は、
秀吉が亡くなった直後、
桃山時代末期に建てられた、
「リアルタイム供養塔」という事で、
かなり貴重な存在です。
期待に胸をときめかせて、
訪問してみると、
やはり現地でしか知れ得ない
掘り出し物情報も沢山GET、
1年待った甲斐がありました(笑)
山門
何箇所かある駐車場のうち、
一番写真映えする場所に駐車。
手前の白い車が僕たちの相棒。
その真後ろの白い塀を隔てた向こう側、
樹木が生い茂った一角に
豊臣秀吉供養塔などが建っています。
山門の遠景。
見落としがちですが、
石垣の素晴らしさも必見です。
薬医門の山門。
正面右側面から撮影。
扁額「豊国山」の文字に、
豊臣秀吉の存在を感じます。
本堂側から撮影。
本堂
山門を散策後、本堂へ。
本堂にて参拝。
屋根には2つの寺紋が見えていて、
一番に目に飛び込んできたのは、
こちらです。
豊臣の家紋、五七桐。
やはり、ここは、秀吉さんの
息がかかったお寺ですから(笑)
こちらの寺紋の名前は不明ですが、
なかなか魅力あるデザインですね。
蟇股にも寺紋があります。
そして、ここで、
感動の出会いが・・・
本堂右側で見つけた飯梆(ハンポウ)。
ここでは「飯梆」ではなく
「魚鼓」と記されていますが、
同義語と考えて良いでしょう。
案内を書き出すと、
次のようになります。
「魚鼓(ほう)の由来
当豊国山俊龍寺境内に、
豊臣秀吉公の廟がある。
家臣柳澤元政は、公の遺徳を慕い
公が出世の左右訓として最も尊びたる
明桧(あすなろ)の木を廟の側に植たり。
永年の風雪に堪えたるも何時しか、
空洞となり、樹齢三百年余にして、
遂に枯死せり。
このまま腐るに忍ばず、
八分枝に割きて、
せめて記念に魚鼓の形なりと思い
図柄を貼りて日毎眺めし折、
偶々当寺を訪れし防府市在住
彫刻師方春杉山春夫氏に
事情を話したるところ
製作奉仕の快諾を得、
直ちに板を貼り合わせたるも
基々半空洞の為、丸身を生ぜず、
同年、十一月十一日当山開山忌に於いて
開眼の儀を行いたり。
実用には供せざるも
片身の魚鼓は之をも以て鏑矢とす。
昭和四十八年十一月十一日
豊国山俊龍寺二十七世
雲外保洲 揖 」
これを読んだら感動しかありません!
まずは、文章の「超前向きさ」です。
「片身の魚鼓は之をも以て鏑矢とす」
「無い」もではなく、「有る」ものに
スポットを当てる・・・
このような文章を考えた住職さん、
どれだけ素晴らしい方なのでしょう。
そして、もう一つの感動は、
400年以上前、
供養塔建立時に植えられた
翌桧の木は「片身の魚鼓」となり
今でも供養塔を見守っている事実です。
そんな思を知って、
改めて魚鼓のお顔を拝見・・・
ド迫力!
このお顔からして、
住職さんと彫師の方の
お心が伝わってきます。
豊臣秀吉供養塔
魚鼓のストーリーに感動した後、
遂に、念願の供養塔とのご対面です。
エントランス。
奥に供養塔が見えて来ました・・・
案内。
この横に詳しい説明があります。
案内を書き出すと、
「豊臣秀吉供養塔
慶長三年(1598)
豊臣秀吉の死没に際し、
毛利輝元が家臣柳澤元政に命じて、
供養塔を建立させたのが、
当五輪塔といわれる。
五輪塔は、平安時代から出現する
日本独特の形式を持つ供養塔であり、
四個の石を積むのが普通であるが、
室町時代中期頃からは、
一石で造ったものも多くなる。
この供養塔は四石で法名、
年月なども刻してあり、本格的である。
この豊臣秀吉供養塔は、
歴史的著名人の
石塔であるというばかりでなく、
石造美術としても、
桃山時代の形式を
よく伝えている遺品である。
また、秀吉の死没と同時代に
建立された供養塔は、
おそらくこの外には全国的にも例がなく、
貴重である。」
このようになります。
これだけの大仕事をやり遂げた、
柳澤元政さんをWikipedia調べ、
超訳してみると、
「足利家の家臣で、
12代将軍足利義晴、
13代義輝、15代義昭にわたって仕え、
義昭が信長に追われた時にも、
毛利氏の庇護を受け、
備後鞆の鞆城へ同行、
ここで毛利輝元に仕え、
関ケ原の戦い後も毛利氏に従い、
高嶺(こうのみね)城の普請も命じられ、
お墓は俊龍寺にある」
このように書かれています。
お墓・・・見逃しました(汗)
次に、足利さんの供養塔について、
書き出すと、
「足利義輝等供養塔
「慶長二年(1597)は
足利義輝及びその母慶寿院の
三十三回忌であり、
室町幕府最後の将軍である
足利義昭が没した年でもある。
毛利輝元は、柳澤元政に
これらの法会の執行を命じており、
柳澤はそれぞれの法会の際に
供養塔を建立した。
中世には、
墓標としての石塔の建立はなく、
室町時代後期になって、
小さい墓標、無縫塔、
宝篋印塔、一石五輪塔などに
法名を刻したものが
墓標として造られはじめた。
これら足利氏石塔は、
その時流にのって
造られたものと考えられる。
足利氏関係のもので、
法名、年月などを刻して、
正確に供養塔名がわかるものは、
おそらく全国的にみても
この石塔のみであり、重要である。
また、無縫塔の室町時代末の
形式を知る上でも貴重な資料である。」
Wikipediaによると
「永禄8年(1565年)、三好三人衆が
二条御所を襲撃した際に義輝は討死。
慶寿院も自ら火中に身を投じて
自害した(永禄の変)。」
このように書かれていますので、
母子ともに
同じ命日となったのでしょう。
この時、足利義昭は、
実の母と兄を同時に
亡くしていたのですね・・・。
供養塔へ。
さらに近づくと、
供養塔の背後には翌桧(あすなろ)の
若々しい木が二本植えてありますね!
片身の魚鼓(ほう)の鏑矢となった
初代の翌桧の魂を引き継ぎ、
永く供養塔を見守り続けるのでしょう。
斜めから撮ると、
背後には高嶺城も写っています。
この後、それぞれに参拝へ・・。
豊臣秀吉供養塔。
山口市指定文化財概要によると
「水輪の正面に「国泰寺殿雲山」、
地輪に「俊龍大居士台霊」と
彫られている。水輪の背面に
「 豊国大明神」、地輪の右側に
「慶長三年八月十八日」、
左側に「防州山口俊龍山献珠院安置」、
後方側に「柳澤監物元政造立」とある。」
このように書かれています。
足利義輝供養塔。
足利義昭供養塔。
慶寿院供養塔。
俊龍寺さんの
丁寧かつ親切な案内のお陰で、
供養塔を単なる
石造物として参拝するだけでなく、
その背景にある人間模様や
400年に渡る
ストーリーの壮大さを知ることが出来、
感謝の気持ちでいっぱいです・・・
足王大権現菩薩
供養塔と本堂の間にあるのが、
足王大権現菩薩です。
参拝。
松葉杖は怪我が完治した方が
奉納されたのでしょう・・・
菩薩様を守るお地蔵様かな?
その他の石塔など
次に境内の石塔などへ。
素朴な燈籠と宝篋印塔。
お地蔵様。
明治十五年建立の石塔。
最後は、いつもの写真で〆(笑)
今日の癒やし
お寺から出る時の風景に
癒やされました。
山門と高嶺城。
何ともほのぼのとして
良い眺めです。