東行庵(下関市)奇兵隊顕彰墓地

 

お墓と公園が一体化

東行庵の墓域は広大で、

同時に公園としての整備もなされ、

売店や出店もあって、

ピクニック気分でお墓参りもできます。

遊びついでに墓にお参りした後、

高杉晋作や奇兵隊に興味を持つ人も

きっといるでしょう!

僕も晋作餅に釣られましたし(笑)

東行庵は歴史から学び、

未来の糧とするには、

最高の場所だと感じています。

奇兵隊及び諸隊士顕彰墓地

高杉晋作の墓をお参り後は、

奇兵隊と諸隊士の墓域へと向かいます。

境内案内図の山半分くらいが

その墓域となっています。

木々に覆われ、

荘厳でもあり、かつ明るさも感じる、

入り込み易い(笑)墓域ですね。

お墓は真ん中の石段の両サイドに

三段に分かれて安置されていますが、

木々に覆われているので、

ここからは見えません。

麓には高杉晋作にちなむ梅園もあります。

晋作さんは、

長男の幼名には「梅之進」と名付け、

自身も平尾山荘に匿われた時は、

谷梅之助と名乗っていて、

よほど「梅」が好きだったのでしょうが、

ここ東行庵で知ったのは、

晋作さんは天満宮(菅原道真)を

崇敬していた節があるという事です。

それは自らが生前指示した墓碑銘に、

「死しても恐れながら天満宮の如く相成り」

この一文を刻んで欲しいとの

記述によるものです。

天満宮といえば「梅」、

晋作さんの心には、

常に菅原道真への憧憬が

あったのかも知れませんね。

石碑

墓参の前に麓の石碑を確認。

「長州は奇兵隊の国である

司馬遼太郎」

「司馬遼太郎が歴史紀行

「街道を行く」の中で長州は、

武士と庶民が一丸となって

維新を成し遂げたと記している。

台座は山口県の地図をイメージしている。」

な〜るほど!

だから、「奇兵隊の国」という訳ですね。

石段下の石碑へ。

石碑の文字は高杉晋作の曾孫、

高杉勝氏の書です。

「高杉東行(晋作歌碑)」

「奇兵隊を創設した高杉晋作が

慶応元年(1865)八月、

下関・新地町に

日本で最初の招魂社を創建したときに、

亡き同志をしのんで詠んだ。

”おくれてもおくれても

又君たちに誓ひしことを

あに忘れめや”

昭和四十八年四月十四日建立」

僕たちは7年ほど前、

ここに書かれた日本初の招魂社である

下関市の櫻山神社に行き、

慰霊をさせていただいていますので、

その時の写真を二枚ほど・・・

櫻山神社の招魂場に並ぶ391柱の霊標。

招魂社新築落成祭典の日に

感慨を歌に詠んだ高杉晋作の自筆が、

刻されたものです。

震えた筆の滲みで、

晋作さんが感極まっていたことが

手に取るように理解できます・・・

ここでは、

”弔らわる人に入るべき身なりしに

弔う人となるそはつかし”

こちらが刻まれていますが、

心情としては、

「おくれても」と同じで、

晋作さんの優しさと、

己を責めるかのような心情が、

この二首の歌に浮き出ています・・

石碑の手前には、

下関の壇ノ浦砲台の大砲に

似たものもあります。

こちらは6年ほど前、

砲台跡を訪問した時の写真です。

藩を思い、国を思い、

命を賭けて戦かった

奇兵隊や高杉晋作の慰霊の場に、

これほどふさわしいものは

ないでしょう・・・

墓地の案内

麓から墓域へ。

ここから遥拝も可能なので、

まずは全員に向けて参拝。

「奇兵隊および諸隊士顕彰墓地」

「維新戦争で亡くなった

長州諸隊士の多くは、

十代、二十代の青年だったので

子孫もなく墓は無縁仏となり

荒れ果てるケースが多かった。

これを嘆いた東行庵三世谷玉仙は、

昭和四十六年、墓地を開き

各地から隊士の墓を集め、供養した。

また昭和四十八年には

隊士慰霊のために高さ、

三メートルの聖観音菩薩石像

(鈴木知朗作)が安置された。」

この中で記された

「谷玉仙」さんにちなんだ花がこちらです。

石段下の石碑前に植えられた

「玉仙」というツバキです。

「八重咲き、平開咲き、

紅色に白のふちどり。

花期は12月〜4月。

高杉晋作の菩提寺東行庵の

第三代庵主谷玉仙さんと親交のあった、

木本豊彦氏の宅で、

洋種ツバキ・フレームと

玉の浦の自然交配で誕生。

33回忌の年に登録。」

こんな形でお墓を集め、

慰霊への道を拓いた恩人への

敬意と感謝を伝えるとは、

心にしみてきます・・・

墓参

ここには膨大な数のお墓がありますので、

気になったお墓のみ、

案内を記していきます。

「白石正一郎の墓」

「下関竹崎町で廻船問屋を営むかたわら、

鈴木重胤の門で国学を修めた。

文久三年(1863)六月、

高杉晋作により奇兵隊が結成されるや、

物心両面から惜しみない支援を続けたが、

その結果一千両もの負債をつくり

家は傾いた。

維新後は赤間神宮宮司をつとめ、

明治十三年没、

墓は昭和四十八年四月に新設された。」

自身の家が潰れてでも

国を思う心・・・

言葉がありません・・・

参拝。

「磯野熊蔵の墓」

「萩出身の奇兵隊士。

明治二年十月二十一日、

人員整理のために

除隊を命じられたことを悔い、

同日夜腹を切りその傷がもとで、

二十九日、没した。二十七歳。」

この方もリストラで

悲劇を迎えた一人でした・・

整然と並ぶ墓石群。

「山田梅吉の墓」

「現在の長門市俵山黒川の人。

慶応三年(1868)十一月

奇兵隊に入り、

翌明治元年(1868)の

戊辰戦争に従軍するも、

五月十一日越後国榎木峠で

長岡藩兵に捕えられ、死す。

享年二十四。」

河井継之助率いる長岡藩は、

新政府軍に武装中立を申し出るものの

それを一蹴され、

奥羽羽越列藩同盟側として

戦わざるを得なったという経緯もあり、

結果、新政府軍は大きな損害を

被っていますので、

もしも中立を許していたら

この方も生きながらえたかも

知れません。

歴史に「if」はありませんが・・・

「西嶋喜兵衛・西嶋新兵衛の墓」

「大津郡俵山村農民で

親子で奇兵隊に入り活躍した。

父喜兵衛は元治元年八月、

四カ国連合艦隊との戦いの際に功を立て、

士分に加えられた。

息子新兵衛は維新後起こった

「脱隊騒動」に加わり、

明治三年十一月十七日、斬首された。」

「山本弥八・堀虎蔵・斉藤亀蔵

・藤吉・粂八の墓」

「彼らは長州藩の軍艦壬戌じんじゅつ丸の水夫である。

文久三年(1863)六月一日、

関門海峡での攘夷戦争のさい、

敵丸が壬戌丸蒸気機関に命中、

傍らにいたため、

熱湯を浴びて即死した。」

「白石兼作の墓」

「勤王志士 白石廉作墓碑建立について」

「白石廉作は、幕末期の

文政十一年(1828)七月、

赤間関(下関市)の豪商

白石卯兵衛の六男として生まれました。

幼名は久吉、のち常三郎と改め、

諱は資敏、字は子寛、

後に名を廉作と改めました。

廉作の人物像は、

「軀幹長大にして、隆準、書を読み、

文を能くし、筆札巧みにであり、

尊王攘夷のためには、

一家、全力を挙げ、

ついに資産を傾けるに至ったが、

意としなかった。」とあります。

嘉永五年(1852)から

豊前国薬師寺の漢学私塾「蔵春園」の碩儒、

恒遠醒窓に学んで、詩文を好くし、

漢詩を学ぶことが人間形成上

きわめて重要であると考えた醒窓に、

とくにその人柄を愛されました。

文久三年(1863)六月、

高杉晋作が白石家で

奇兵隊を創設したときには、

兄、正一郎とともに真先に入隊して

晋作の後ろ盾となり、

以後、物心両面で新作を援けて

討幕運動に奔走しました。

そして、文久三年十月、

新しい時代の創造をめざした

但馬生野(兵庫県朝来市)の義挙において

殉難を余儀なくされ自刃したのです。

享年三十六でした。

生野義挙はわずかに四日間で

終結するという結末を迎えましたが、

明治維新に果たした役割は

大きいとされています。

ここに恒遠塾出身の勤王志たる

彼の勲功にこたえるために

多数の賛助者を得て

墓碑を建立いたしました。

平成十九年十月二十一日

福岡県豊前市大字薬師寺

恒遠醒窓顕彰会」

以前、僕たちは

朝来市の竹田城を訪問した時、

その麓にある「忠魂碑広場」で、

生野義挙で亡くなった方の慰霊碑に

参拝していますが、

その義挙した人の中に、

白石正一郎の弟がいたことは

初めて知りました。

朝来市のサイトによると

「周防三田尻に滞在していた七卿の一人、

澤宣嘉卿を説得し、

長州の奇兵隊を中心とした

27名の志士たちと共に船二隻に分乗し、

文久3年(1863)10月2日の夜、

三田尻を出航しました。」

このように書かれています。

白石廉作も「27名の志士」の

一人だったのでしょう。

「今井満太郎の墓」

「今井満太郎は地元吉田村の正名団に入隊、

小倉戦争に従軍して

慶応二年(1866)七月三日、

豊前国大里で戦死した。

十四歳だったが、

十五歳からしか兵士になれなかったため、

年齢を偽って入隊したと伝えられる。」

十四歳か・・・

十三歳の岡山篤次郎はじめ、

多くが戦死した

戊辰戦争での二本松少年隊の悲劇を

思い出します・・・

まだまだお墓は続きます・・・

「藤野正助の墓」

「藤野正助は町人で奇兵隊に参加し、

慶応二年(1866)九月十六日

「小倉戦争」中に戦病死した。

享年二十。

墓は下関市の水上警察署の

官舎裏門の敷石になった状態で

発見されたのを、

昭和四十六年八月、当地に移した。」

さらに巡ります。

「奈良屋源平衛の墓」

「奈良屋源平衛は下関の商人

白石正一郎のもとで働いており、

奇兵隊の人夫頭をつとめた。

文久三年(1863)八月十七日、

先鋒隊(上士)と奇兵隊が対立したさい、

先鋒隊のリンチを受けて死亡。享年五十九。」

やはり身分の壁は厚かったのか・・・

「内藤九郎の墓」

「大野毛利家の家来内藤源右衛門の子。

奇兵隊四番小隊に属した。

慶応二年、小倉戦争で負傷、

明治元年の戊辰戦争に出征して功があり、

賞典祿として二十石を下賜されるも、

明治九年の萩の乱に参加し、萩で獄死。」

この方も「己を貫いた」のでしょう・・・

多くのお墓に記された

各人の経歴、生き様を知ると、

奇兵隊や諸隊士の事を

十把ひとからげに語ることなど

到底できません。

一人一人に、それぞれ全く違った運命、

人生があったのですから・・・

ここでお参りできて、

本当に良かった・・・

皆様、

安らかにゆっくりお休みください。

聖観音菩薩像

墓域の頂上へ。

聖観音菩薩に参拝。

ここにいる皆様を

優しく見守っています。

観音様の視線の先には・・・

墓域が・・・

(続く)

 

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