河井継之助記念館(新潟県長岡市)後編

 

「思い出」に配慮

河井継之助記念館の写真撮影は、

1階部分は一部を除き原則OK、

2階部分はNG。

この優しさのお陰で、

なかなか記憶出来ない僕も

河井継之助記念館の思い出を

しっかり残す事ができました。

「思い出」への配慮、

実にありがたいものです。

1階奥の展示室

玄関側の1階展示室を見学後、

継之助さんの銅像が建つ奥の展示室へ。

特別展の案内。

以下、一部抜粋です。

「継之助の父河代井右衛門(小雲)は、

長岡藩の茶道である宗徧流の師範をつとめ、

邸宅の庭に石灯籠を配し、

茶室を設けていました。

良寛と交流があったことも

知られています。」

初めて知った「宗徧流」が気になって

Wikipediaで調べると

宗徧流の八代家元、「宗有」は、

本名を山田寅次郎といい、

トルコ軍艦が和歌山県樫野崎で沈んだ、

エルトゥールル号遭難事件で、

日本中で集めた義捐金を

トルコに持参した人物でした。

河井代井右衛門さんの時代は、

寅次郎(宗有)の少し前の家元が、

お師匠だったのでしょう。

父・代井右衛門の茶釜(庄兵衛作)。

案内を抜粋すると

「長岡藩には、

千利休の孫・宗旦の門下である

山田宗徧の宗徧流が伝わっていました。

嘉永2年(1849)

小雲手記茶会献立に

大徳寺釜と記されています。」

このようになります。

茶釜の箱の裏側。

茶会の記録が記されていますが、

達筆過ぎて読めません(汗)

河井継之助使用の茶器。

以下、案内です。

「河井系の従僕松蔵が継之助から

もらったものと伝えられています。

長岡城奪還戦で銃弾に倒れた継之助は、

この茶器で漢方薬を飲んだそうです。

茶器の作者は、

幕末の尼僧大田垣蓮月です。

「世の中の ちりも ほこりもながれては

よきに かえる かもの川波」

と歌が彫ってあります。」

「風雲 蒼龍窟

河井継之助銅像」

お顔ドアップ。

そして、足元を見ると・・・

ブーツですよ!

河井継之助さん、

ブーツ履いていたんだ〜!

やはりブーツと言えば、

坂本龍馬を思い出します。

長崎市の亀山社中資料展示場

亀山社中記念館の道筋に置かれた、

「龍馬のぶーつ」を履く妻。

ブーツは龍馬だけの

先進性かと思っていたら

江戸時代末期には、

そこそこ浸透していたのかも知れませんね。

河井継之助が幼いころの長岡城下。

継之助さんの邸宅は、

長岡城本丸に近く、

重要な家柄だったと書かれています。

河井継之助の生涯。

文政十年(1827)〜

慶応四年(1868)まで、

42年の生涯を年表にしてあります。

ここでのハイライトは二つ。

一つ目は、

1859年、33歳の時、

備中松山藩の山田方谷に師事し、

新潟から岡山県の山の中にまで行き、

尚且つ九州にまで遊学している事。

類稀なる行動力には脱帽ですね!

岡山県新見市に建つ、

山田方谷記念館のパンフレット。

河井継之助の政策に、

この人の影響は大きかったのでしょう。

そして、

二つ目は、1868年、42歳の時、

継之助さんは、

長岡城攻防戦で負傷し、

同盟藩である会津を目指し退却中、

福島県の只見町でその生涯を終えています。

「只見町戊辰戦争史跡めぐり」の

パンフレット。

クライマックス的な部分を

少し要約・抜粋します。

「只見では長岡からの

25,000人もの避難者の

食料確保に奔走するも万策尽き、

代官の丹波族(にわやから)は、

責任をとって自害します。

悲報を知った只見の人々は、

その忠義に心を打たれ、

わずかな蓄えまで持ち出して、

長岡の人々を救う事ができたのです。

河井継之助は8月12日、

傷治療のため若松に向けて

出発しますが、傷の状態が悪化、

塩沢の医者、矢沢宗篤宅に投宿し、

8月16日に亡くなりました。

村人はその死を悼み、

残骨をひろい集めて

塩沢の医王寺に墓を建てました。」

難民救助・・・

こんな所でも戊辰戦争の悲劇は、

起きていたんですね・・・

屋外展示

ここの見所は、

館内だけじゃなく、

屋外にもあるんです。

駐車場の奥へ。

板壁にはたくさんのパネルがあります。

「長岡城之面影」

城址が無くなってしまった長岡城。

ここでパネルにより

蘇っているんですね!

お城好きにはたまらんな〜(笑)

各パネルをかいつまんで、

書き出していきます。

輪郭式の大規模なお城ですね!

長岡城の風物詩、六月十五日の

蔵王権現社の祭礼日。

長岡城のシンボル御三階櫓。

堀幅は50m以上だった。

河井継之助の登城路。

参勤交代図。

参勤交代の江戸土産は、

「団扇・茶・線香花火」。

長岡花火の原型。

「三月下旬から五月ころまでの

日を選び、師範たちによる

砲術が城下の中島で行われた。

黄烟柳・黒雲雷鳴と称す昼の合図、

銀河星・火柳などという夜の合図の

三寸玉から一尺玉が打ち上げられ、

長岡花火の原型となった。」

実射訓練。

三月一日から四日まで

雛人形を飾り菱餅や膳で祝う

「雛遊び」。

九月十三日。

十三夜と称し団子を供え月見した。

長岡藩の御能は金春流。

図は筆頭家老稲垣平助家で演じられた稽古能。

幕末の長岡藩は、

フランス兵制を採用し、

調練場ではフランス語で号令をかけた。

馬印。

パネルを見終わって、

最後に向かい側の「史跡碑」を撮影。

小さいながらも

充実の展示に感動しきりの

河井継之助記念館でした。

 

  関連記事 - Related Posts -

 

  最新記事 - New Posts -

 

Message

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です

このサイトはスパムを低減するために Akismet を使っています。コメントデータの処理方法の詳細はこちらをご覧ください