街道の駅 赤馬館(福岡県宗像市)
ガイダンス施設
「街道の駅 赤馬館」は、
唐津街道・赤間宿の
真ん中あたりに位置する
ガイダンス施設ですが、
食事もできるので、
情報種集だけでなく、
お腹を満たしたい人にも
おすすめの施設です。
赤馬館へ
出光佐三展示室を楽しんだ後、
赤馬館へと向かいます。

途中、出光佐三の生家を通過。

赤馬館近くの交差点で妻が一言、
「赤馬らしく赤色の交差点やね!」
確かに鮮やかな赤色は
赤間由来の「赤い馬」を
意識してのことかも知れません。

赤馬館に到着。

ラーメンもかき氷も、
めっちゃ訴えかけてきます(笑)
パンフレット
以下、頂いたパンフレットの紹介です。

冒頭を抜粋します。
「むかしむかし、神武天皇が
この地に来られた時のこと。
赤い馬に乗った八所宮の神様が
現れて出迎え案内されたので、
赤馬(赤間)という名が付いたとか。
そんな遠い時代から、
東と西とをつなぐ道にあり、
江戸の時代、
黒田の殿様の行列が通った、
唐津街道赤間宿。」
赤馬が赤間に・・・
馬のままで残していたら、
今年は午(うま)年で、
盛り上がっていたかも?(笑)

色んなことが出来ます。

これを全部めぐると、
間違いなく
「赤間ソムリエ」になれるでしょう!
館内
入館したのは、
食事営業開始10分前の10時50分。
このお陰で、当初から行く予定の
「中華菜館 五丈原」まで、
昼食を我慢することが出来たのです。
もしお店が開いていたら、
腹ペコだった僕たちは、
予定を変更して赤馬館で、
お腹を満たしていたはずですからね。
紙一重で我慢できた事で、
「五丈原」とのご縁は、
より深かったという訳でしょう!

「赤い馬」の短冊がお出迎え。
その後館内を散策へ。

「引き札」
昔のコマーシャルちらしで、
実に味がありますね!

和室も完備。

歴史コーナー。
小さな部屋ですが見所満載です。
赤間宿と御茶屋
歴史コーナーは、
パネル展示主体ですが、
ビデオ上映もあり、
赤間宿の事がサクッと頭に入ります。

唐津街道の案内。
ここで気になる、
「福岡藩主の参勤交代路」を
2つに分けて書き出します。
「唐津街道を参勤の上下で
必ず利用していたのが、福岡藩主です。
まず福岡城を出ると箱崎まで行き、
御茶屋にて旅装束になり、
箱崎八幡宮参拝を行います。
初日は青柳宿に宿泊し、
翌日は木屋瀬宿もしくは
黒崎宿に宿泊のため、
赤間宿では休憩が多かったようです。」
結構レア情報が入っていますね!
藩主は福岡城から出る前じゃなく、
途中で旅装束になったとは、
やはり城を出る時には、
藩主としての格式や威厳を保つ
必要があったからでしょうか?
そして初日のお宿「青柳宿」は、
僕の住んでる古賀市にありますが、
藩主の宿泊場所となっていたとは、
初耳です(笑)
「また、文政頃(江戸時代後期)になると、
それまで長崎街道を通行していた薩摩藩が、
二日市ー博多ー赤間ー木屋瀬ー黒崎の
ルートを通るようになったため、
赤間での交通量が増大しました。
しかし、唐津街道は、宿屋など
宿泊に関する設備が整っていないため、
大通行には不慣れで支障をきたすので、
薩摩藩の通行を止めさせるよう
藩に嘆願した記録も残っています。」
薩摩藩が文政期から
博多を通るようになった理由は、
当時の福岡藩主は、
薩摩藩主、島津重豪の実子で、
黒田家の養子として入った
黒田長溥だったからかも知れません。
どうせ江戸に参勤するなら
途中福岡城に寄り道したいのは
人情という物でしょう(笑)
(全部勝手な推測ですが・・)

「宿場町としての赤間」
以下、抜粋です。
「黒田長政が筑前に入国した頃は、
民家が四〜五軒しかなかったものが、
その後、町屋がぎっしりと建ち並ぶ
賑やかな宿場町へと変貌しています。」
宿場が出来れば、
人も物も金も集まるという一例ですね。

「江戸時代の赤間宿の街並み」
パッと見ただけで、
黒田家の御茶屋(地図左上)が
いかに大規模なものだったかが分かります。

黒田家御茶屋の絵図で確認。
早川勇
僕たちは早川勇という方を
全く知りませんでした。

「筑前宗像 維新の志士 早川勇」
以下抜粋です。
「早川勇は医師修行の一方、
中底井野の迎旭堂(月形健・春耕)
福岡の月形塾(月形深蔵・漪嵐)で、
朱子学などを学び、
深蔵の嫡男月形洗蔵、
春耕の嫡男月形潔など
月形一門と深く関わった。
その人脈は野村望東尼、平野國臣、
鷹取養巴、中村円太など
福岡藩の勤王家たちへと広がり、
薩摩西郷吉之助、長州の高杉晋作、
土佐の中岡慎太郎らへとつながっていく。
第一次長州征伐の折、
早川勇は長州藩救済のため
十五万幕府軍の解兵に向けて奔走した。
元治元年(1864)
福岡藩十一代藩主黒田長溥は
尊王派月形洗蔵、早川勇らに
長州周旋を命じた。
早川と月形は、西郷と「薩。長。筑」
三藩連合発想も共有しながら身を投じた。
早川らは中岡慎太郎(土佐)や
高杉晋作(長州)らと敵対する
西郷吉之助(薩摩・幕府軍参謀)との
会合を仲介した。
また、長州恭順の条件
「五卿」の引き渡しについて、
殺気みなぎる功山寺の
長州諸隊と五卿を説得し、
遂に五卿の大宰府転座を実現したのも
早川らである。
かくして十五万幕府軍は解兵し、
長州藩は蘇生した。
これをチャンスとばかり
行動を起こしたのが高杉晋作である。
高杉は功山寺で決起、内訌戦を制して、
長州藩論を「討幕」に転換させた。
明治維新の実現が長州高杉晋作や
薩摩西郷吉之助らの
強烈な討幕志向によるものとすれば、
それを可能ならしめたのは、
早川ら福岡藩尊王派の命がけの
長州周旋活動の働きがあってこそであった。
しかし、福岡藩は王政復古の二年半前、
功労者たち加藤司書、月形洗蔵、
鷹取養巴ら尊王家を処刑した。
乙丑(いっちゅう)の獄という。
福岡藩は明治を目前に
優秀な人材を自らの手で摘み取った。
早川は、牢居の処分を受けた。」
色んな事情があったとはいえ、
福岡藩は大藩でありながらも
人材がいなくなった事により、
戊辰戦争での活躍もなく、
明治新政府に登用されたのも、
早川勇さん一人だったそうです。
お隣の佐賀藩主、鍋島直正の
幕府と新政府との間での
超絶な程の立ち回りの巧みさと、
軍備での西洋技術導入の素早さを思えば、
かなり残念な福岡藩です(汗)

早川勇の人生と三大功績。
明治3年の偽札事件では、
福岡藩から唯一明治政府に入っていた
早川さんの活躍があったことが
記されています。
幕末から維新にかけての
福岡藩の落ちぶれようは、
目を覆うばかりですね・・。

五卿西遷。
京都における公武合体派による
尊王派一掃の事件、
八月十八日の政変での、
いわゆる七卿落ちです。
途中、一人が亡くなり、
一人は逃亡したので、
「五卿」となっています。

早川勇書。
以下、読みと意味です。

「読み下し文」

意味。
「西郷南州翁に贈る。
畳韻十首の一 早川勇」
【解説】
「天は英傑を世に出して
立派に終りをまっとうさせたいと思い、
先ずは 英傑にゆきなやむ困難をもたらして
艱難辛苦させることを切望するものです。
三年間の流罪は
はるかかなたの海の外であったが、
千変万化の兵法の書は、
英傑の胸の中におさまっておりました。
忠義の気概はもろもろの
敵虜の胆を圧しくだき、
私心を捨てたまごころは
日本八州の士風を振いおこしてきました。
明君と良臣が同時代に相い会うことは
まことにすばらしいことであり、
これからもとこしえに天子さまの
はりごとを仰がれて万歳にわたる
英雄であってほしいものです。」
早川さん、
凄い方だったんですね!
赤間館には気軽に入ったのに、
目から鱗の幕末維新における
福岡藩士の活躍も知れ、
偽札造りだけではなかった事、
ちょと嬉しくなっています(笑)