高野山・奥之院(3)

 

基本的には供養塔

奥之院には、

「○○家墓所」と書かれた

案内が沢山ありますが、

実際のお墓は各地の菩提寺など

別の場所にあり、

基本的には供養塔で、

遺骨が納められたお墓ではないようです。

しかし、

ここでいちいち「供養塔」、「墓」と

考えつつ書くのは、

めんどくさい(汗)ので、

供養塔と書いたり、墓と書いたりして

混同は甚だしくなっています(笑)

五輪塔地蔵

「五輪塔地蔵」、

僕が勝手に付けた名前です(笑)

杉の木の根っこのくぼみに

五輪塔が配置され、

それに赤い帽子が被せられています。

五輪塔だけど風体はお地蔵様(笑)

引きの写真だとこんな感じです。

禅尼上智碑

禅尼とは女性の僧侶のこと。

江戸期まで女人禁制だった高野山に

禅尼の供養塔があるのは、

相当に偉い方だったのかも知れません。

(千姫など武将・大名の正室の

供養塔は多くありますが)

案内によると

「この供養塔は、

高さ約90cmの砂岩製で、

梵字が一字と、永和元年(1375)の

北朝の年号が刻まれています。

昔から、この供養塔に耳をあてると、

極楽の声に似た音が聞こえてくると

言い伝えられています。」

このように書かれています。

極楽の声・・・どんな声かな?(笑)

切り株地蔵

「切り株地蔵」、

こちらも五輪塔地蔵に引き続き、

勝手に僕が付けた名前です(笑)

杉の木は切られても、切り株の中の

お地蔵様は、

ずっと大切にされている・・・

素晴らしい!

泉州岸和田 岡部家墓所

大坂の南部、だんじり祭りで有名な

岸和田城主、岡部家の墓所です。

岡部家は江戸時代初期の

寛永十七年(1640)、

岡部宣勝が、高槻城から

転封により岸和田城に入り、

明治維新まで続いています。

汗かき地蔵

汗かき地蔵と名のつくお地蔵様は

全国的に見受けられますが、

ここでは「姿見の井戸」との

セット(笑)となっています。

案内によると

「汗かき地蔵は、

常に人々の犯した罪に苦しみ、

その苦しみを慈悲によって代わって受け、

そのため汗を流して

おられるといわれています。

黒っぽい石材に地蔵尊が

半肉彫りされていて、

実際にツユが吹いて汗が流れているように

見える時があるそうです。」

このように書かれています。

地蔵堂右横の「姿見の井戸」

これはちょっと怖い井戸・・・

井戸を覗き込んで、

自分の姿が映らなければ

三年以内に死ぬそうですよ(汗)

もちろん、

僕達はやっていません(笑)

市川團十郎墓所

歌舞伎役者、

市川團十郎の供養塔です。

参拝。

遠州掛川 北條家墓所

江戸時代、掛川藩主は

14~15家くらいが

目まぐるしく入れ替わり、

存在しています。

この北條の文字は「北条」のことで、

この墓所は、

おそらく慶安元年(1648)から

10年間掛川城主となった

北条氏重の家系ではないかと

推測されます。

(氏重の死後、北条氏は無嗣断絶)

参拝。

出羽 庄内藩主 酒井家墓所

庄内藩について、

Wikipediaによると

「転封の多い譜代大名にあって、

庄内藩酒井氏は転封の危機に

晒されはしたものの、

江戸幕府による転封が

一度もなかった数少ない

譜代大名の一つである。

庄内藩は、藩史に見られるように

藩主・家臣・領民の結束が極めて固い。」

このように書かれています。

酒井氏の居城は鶴ヶ岡城ですが、

僕達は未訪問で、

最上氏がいたお城くらいの知識で、

その他はあまり詳しくは知りません。

話は遡りますが、

戦国時代の酒井氏は

徳川家康の家老として

酒井忠次が主だった戦で活躍しています。

特に僕の印象に残るのが、

長篠の戦いで、分遣隊を率いて

武田勝頼の背後にあった

鳶巣山(とびがすやま)砦を陥落させ、

長篠城を救い、勝頼を慌てさせて、

鉄砲の一斉射撃で有名な

設楽原の戦いでの勝利を

引き寄せた事です。

参拝。

伊勢桑名城主 本多忠勝墓所

次は、徳川四天王の一人、

上総(千葉県)大多喜城主から

桑名城に転封になった

本多忠勝墓所へ。

ここは累代の墓ではなく、

本多忠勝のみのお墓のようです。

参拝。

陸奥 白河・日本松 丹羽家墓所

織田信長の重臣、

丹羽長秀から続く丹羽家は、

長秀の子、長重が、

関ヶ原の戦いで西軍につき

東軍の前田利長と戦い

改易されたものの

その後、大名に復活、

白河藩主~二本松藩主となり

明治維新を迎えています。

長重さん、

相当に「出来る男」だったのでしょう。

鳥居をくぐって中へ。

参拝。

家紋の☓が僕のお気に入り(笑)

筑後久留米 有馬家墓所

有馬家といえば、

子孫の有馬頼寧(よりやす)さんが、

競馬の有馬記念を始めた人。

何故かそんなイメージなんです・・

競馬はやらない僕ですが(笑)

また、

有馬さんは、江戸時代初期、

福知山から転封し、

久留米城主となった家柄で、

現在安産の神様として有名な

東京の水天宮は、、

江戸時代、

久留米藩邸内に勧請した

久留米鎮座の水天宮

こんなことも

合わせて思い出されます(笑)

中へ。

参拝。

(続く)

 

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