高野山・奥之院(2)

 

鳥居

奥之院にある墓所の前には、

鳥居が建てられているものが

多くあります。

江戸時代のものでしょうが、

ここも神仏習合的な場所でも

あったのでしょうか?

何も解明出来てはいませんが、

いつかは理由がわかるかも知れません。

備後福山水野家墓所

奥之院で最初に参ったのが

備後(広島)水野家墓所です。

福山藩初代の水野勝成は、

家康の従弟(いとこ)という名門で、

元和五年(1619)福山城を築き、

その藩政は領民に慕われたようです。

しかし、五代後の藩主に

後継ぎがいなくなり改易されています。

Wikipediaによれば、

改易後、

勝成の曾孫である水野勝長が、

能登国西谷藩1万石に

取り立てられ、大名となり

その後は、結城藩へ転封、

水野家は明治維新まで続いています。

参拝。

長州毛利家墓所

次は長州(山口)萩城を居城とした

毛利家の墓所へ。

鳥居もあります(笑)

参拝。

一の橋方面を目指すも

墓所が多すぎてなかなか

前進できません(汗)

安芸浅野家墓所

次は安芸(広島)浅野家墓所。

福島正則改易後、

安芸・備後42万石の

国主(国持)大名として

広島城に入った浅野家は、

明治維新まで続いています。

五輪塔は一つ。

なんかシンプルですね。

参拝。

豊後 岡 中川家墓所

次は豊後(大分県)岡城の城主、

中川家の墓所です。

鳥居が崩れ、

ちょっと荒れているか・・・。

参拝。

信州 真田伯爵家累代墓所

真田幸村(信繁)で有名な真田家。

ただし、ここにあるのは、

関ヶ原で東軍についた幸村の兄、

真田信之の子孫の墓所です。

江戸時代は、上田城

その後、転封となり松代城

城主として明治維新を迎えています。

羽州山形太守 最上義光公墓所

最上義光(よしあき)と聞くと、

豊臣秀次の側室になる

直前だったにも関わらず、

秀次事件による秀次の切腹に連座し、

15歳で処刑された義光の娘、

駒姫の悲劇です。

秀吉は義光から心底恨まれ、

味方をまた一人失ってしまいました。

この時、駒姫の助命嘆願をしたのが、

徳川家康だったとか・・・。

豊臣氏滅亡の一つの布石は、

「独裁者、秀吉ブチ切れる

家来の大名やばくなる・・

そして、

お助けマンで家康登場。

お助けが、成功してもしなくても

助けられた側の心は家康へ・・・」

この構図です。

あの小早川秀秋も

朝鮮出兵でのヘマをなじられ

筑前国を取り上げれるところを

家康がとりなしていますし、

やはり家康と秀吉の深謀遠慮は、

雲泥の差だったのでしょう・・・。

参拝。

大きな義光の五輪塔の右に

「南無阿弥陀佛為長岡但馬守供養塔」

と書かれた小さな五輪塔は、

義光が死んだその日に

殉死した4人のうちの一人です。

高麗陣敵味方戦死者供養碑

僕はこれを目の当たりにした時、

島津義弘という人が、

何故、関ヶ原で負けが決まった後、

家康の陣の前を駆け抜け、

討ち取られもせず、

鹿児島まで生還出来た

いわゆる、

島津の退き口」が成功したのかが、

分かった気がしました。

案内によると

「史跡 高麗陣敵味方戦死者供養碑

慶長四年(1599)に

薩摩藩主 島津義弘・忠恒の父子が

高麗戦争における

敵と味方の戦死者の霊を

供養するために建てたもので、

日本武士道の博愛精神の

発露として知られる。」

このように書かれています。

ちなみに高麗戦争とは

秀吉の朝鮮出兵のことです。

ここには大きな三重塔を中心に

宝篋印塔が並んでいます。

この石碑の一部を読んでみると

「慶長二年八月十三日

於全羅道南原表大明国軍・・・

為高麗國在陣之間敵味方閧死○○入佛

横死病死之輩・・・

慶長第四己亥歳六月上○

薩摩島津兵庫頭藤原朝臣義弘

○○・・・・・・・・・・・・・・・・・・忠恒」

このようになります。

まるで佐野常民の博愛社

(後の赤十字社)と

同じような考えではないでしょうか。

日新公(じっしんこう)と言われ、

郷中教育の基礎を作った名君、

島津忠良公の精神が、

孫の義弘さんにも

宿っていたのかも知れません。

丹波 出石 小出家墓所

次は丹波出石(いずし)小出家です。

有子山城を廃し、

出石城を作り藩政を治めた小出さん、

八代で改易、断絶しています・・・。

参拝。

信州 高遠 鳥居家墓所

現在は高遠桜で有名な、

信州 高遠 鳥居家の墓所。

鳥居家は改易の危機もありながら

壬生藩主として幕末まで存続しています。

参拝。

お地蔵様

奥之院には所々に

お地蔵様がいらっしゃます。

参拝。

伊予 大洲 加藤家墓所

次はカトちゃん(笑)

伊予(愛媛県)大洲の加藤家は

脇坂家の信濃国飯田藩転封の後、

伯耆国(鳥取県)米子から

大洲城に入りここを居城として

明治維新を迎えています。

ちなみに脇坂家はその後、

龍野藩に転封となり

江戸時代を全うしています。

参拝。

密厳堂

次は新義真言宗を唱え、

高野山を離れて根来寺を開いた

覚鑁上人 興教大師

(かくばんしょうにん こうきょうだいし)が

祀られている密厳堂へ。

エントランス。

杉林に守られたお堂。

覚鑁上人をWikipedia調べると、

九州の佐賀県生まれなんですね!

しかも誕生日は、

旧暦ながら僕と同じだし(笑)

これは根来寺に行ってみないと!

(続く)

 

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