高野山・奥之院(4)

 

二人仲良く・・・

明智光秀石田三成

共通点は、

日本史上有名な戦いの

主役となりながらも

志半ばで滅んでしまったこと。

この両名の墓所は、

お隣さんといっても良いくらい

近い場所にあります。

亡くなったのは光秀さんが、

天正十年(1582)

三成さんは慶長五年(1600)。

今はご近所同士、

備中高松に釘付けにされていた秀吉が

あんなに早く戻ってきて、

山崎での戦いになるとは、

ちょっと迂闊でござった!」

「いや~関ケ原では、

松尾山の秀秋が寝返るとは

拙者の思慮不足であった!」

「お互い次回は上手くやりましょう!」

な~んて反省会をしているかも(笑)

日向 飫肥 伊東家墓所

日向飫肥(おび)は、

現在の宮崎県日南市で、

僕達は今年の春、

伊東さんの居城だった

飫肥城を訪問しています。

伊東さんは、島津さんと

飫肥城を獲ったり

獲られたりの末、

ほぼ裸一貫になりながらも

最終的に飫肥を領地としました。

伊東さんの

「驚異の粘り強さ」があればこそ

ここにお墓があるのでしょう・・・

人生、最後まであきらめず

粘ることは大切です(笑)

参拝。

ちなみに僕達は飫肥城近くにある

伊東家累代の墓所

参拝しています。

越後村上 内藤侯墓所

越後は新潟県です。

僕達の家から遠いので、

正直ほぼ知識はありませんが、

戦国期は家康のもとで戦い、

親藩として江戸時代を全うしています。

Wikipediaで調べると、

興味深いお話がありました。

「「内藤家歴代当主肖像画」は、

村上城主内藤家の家祖信成から

第10代当主信敦までの

歴代当主を描いた10枚の肖像画。

内藤家を祀る新潟県村上市の

藤基神社の御神宝として

秘匿されてきたが、その重要性から、

令和2年7月に初めて一般公開された。

絵画として優品で、

かつ10点もの肖像画が

長期間にわたり離散せず

現存している例は非常に珍しものとして、

村上市文化財に指定された。」

このように書かれています。

新潟に行ったら藤基神社に参拝し

是非肖像画を見てみたいものです。

参拝。

長州 萩 益田家墓所

益田家は、現在の

島根県益田市に本拠を持ち、

毛利氏に臣従してからは、

永代家老となった家柄で、

大名ではありませんが、

高野山に墓所を持てるほどの

高貴な家柄だったのでしょう。

参拝。

奥州 相馬家墓所

相馬と言えば、

お祭りの相馬野馬追くらしか

知らない僕ですが、

Wikipediaで調べると、

相馬家は鎌倉時代から明治維新まで、

740年もの間、

同じ土地を治めていたそうです。

関ケ原の戦い後、改易されたものの

改易撤回の直訴求め、

本領を安堵されるという危機を

何とか乗り越えているのも

やはり伊東さんと同じ、

「あきらめない粘り強さ」ですね。

参拝。

河内 高木家墓所

こちらもWikipediaに

頼るしかありません(笑)

「藩祖の高木正次は、

徳川十六神将の一人

高木清秀の子で、相模国・武蔵国・

上総国・下総国および近江国に

9千石を領する旗本だった。

元和9年(1623年)に

大坂定番に就任し

1千石の加増を受け、

河内国丹南郡22村に

1万石を領する大名となった。」

このように書かれ、

この後、明治維新まで家は続いています。

参拝。

上州 高崎 安藤家墓所

こちらもWikipediaから。

「歴代(高崎)藩主の中で

最も有名な人物は、

第5代藩主・安藤信正である。

信正は桜田門外の変の後、

老中として幕政を主導したが、

文久2年(1862年)の

坂下門外の変で失脚、

強制隠居処分に処され、

所領も4万石に削減された。」

このように書かれています。

参拝。

信州 高遠 内藤家墓所

次は信州 高遠藩の内藤家の墓所です。

参拝。

明智光秀墓所

遂に出ました(笑)光秀さん!

エントランスにも

ちゃんと案内の石碑が建っています。

参拝。

本能寺の変で

謀反を起こされた側の

織田信長さんの墓所は、

かなり遠くにありますが、

距離をおいた方が、

やはりお互い居心地が

良いからでしょうかね?(笑)

石田三成墓所

そして、光秀さんのご近所仲間

石田三成さんの墓所へ。

入口。

五輪塔の下部に刻まれている文字は、

「天正十八庚寅

日光菩薩(梵字) 宗應 逆修

三月十八日」

このようになります。

天正十八年は1590年、

秀吉の小田原攻めの年です。

三成が亡くなったのは、

この10年後なのに、

何故、天正の文字があるのか

参拝時にはホント不思議でしたが、

これは生前に作ったお墓、

いわゆる「逆修墓」だったのです。

だから「逆修」と刻まれているんですね。

三成はこの時まだ30歳くらいの

若輩者(笑)だったのに

高野山にこれだけ

大きな五輪塔を建てるとは、

よほどの力があったのでしょう。

しかし、この墓が出来た直後、

三成が行った忍城の水攻めは

失敗しています・・・(汗)

五輪塔の前には、

何故か、「かまぼこ板」に書かれた

般若心経がありました・・・。

薩摩島津家 家久 光久 綱久墓所

次は薩摩島津家三代の墓所へ。

鳥居の扁額には、

三人の戒名が刻まれているようです。

参拝。

堀尾吉晴公墓所

次に見つけたのが、

関ヶ原の戦い後、月山富田城に入り、

その後、松江城を築城した

堀尾吉晴公の墓所です。

立派な案内。

堀尾家の家紋、分銅と六つ目結も

しっかり描かれていますね。

参拝。

僕達は今年、月山富田城近くの

厳倉寺にある堀尾吉晴公の墓

参っていますが、

巨大なお墓だったのを思い出します・・

(続く)

 

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