B25墜落搭乗員慰霊碑(知覧町)

 

敵味方を超えた慰霊

第二次世界大戦末期、

米軍の激しい空襲を受けた日本。

何十万人もの人々が命を落とし、

傷を負い、家をなくしました。

一方、空襲した側の米軍にも

多くの犠牲者が出ていて、

大型爆撃機B29の搭乗員だけでも

3千名以上とも言われています。

彼らにも妻や恋人、家族、

そして大切な友人もいた事でしょう。

日本の各所には、

犠牲となった米軍パイロットはじめ

連合軍の慰霊施設が幾つもあり、

特攻基地があった知覧には、

日本軍の対空砲火で撃墜された

B25爆撃機の墜落地点に、

搭乗員の慰霊碑が建てられています。

この慰霊碑の存在は、

小さなものかも知れませんが、

この慰霊碑がある事により、

日米の相互理解と交流の場にもなり、

ひいては、

平和への第一歩にもなると感じてあます。

山砲座跡

掩体壕から次なる目的地、

山砲座跡へと向かう途中、

通信隊跡の石碑に遭遇しました。

「あゝ悲愴、壮烈無比

「我 突入す」の信号が切れた。

特攻成功!!

受信した通信兵が緊張した顔で

戦闘指揮所の方へ走っていった。」

特攻機からの突入信号が短ければ、

体当たり失敗、

長ければ成功としていたそうですが、

突入信号を打つ以前に、

多くの特攻機は撃墜されていました・・

本当に悲愴という言葉しか

見つかりません・・・

山砲座跡に到着。

観音像があしらわれた山砲座の石碑。

「山砲座跡」

以下、抜粋です。

「本来は対空火器ではない山砲が、

余りの空襲の激しさに耐えかね、

代用として使われました。

この猿山にあった山砲は、

知覧飛行場で初めて据えられた

対空火器でした。」

驚きました・・・

知覧には予め対空火器を

準備していなかったのですね・・・

そして山砲座の石碑の隣には、

もう一つの案内碑があります。

「豊玉姫伝説 鬢石 30m」

こちらは神話の時代の話です。

まずは鬢石から。

知覧を治める事になった豊玉姫が、

この石に座って髪をといたそうで、

豊玉姫神社」や、

先に訪問した

取違神社」絡みの逸話の一つです。

「山砲座跡(猿山)」

以下、全文です。

「この場所からは飛行場跡を一望でき、

その先には開聞岳を

眺めることができます。

戦時中はこの飛行場から

多くの特攻機が飛び立ち、

米軍から度重なる空襲を受けました。

激しい戦闘が行われたこの地も、

長い年月のうちに

畑や住宅地に代わっていきました。」

畑や住宅地の中に、

飛行場を想像してみます・・・

かすかに開聞岳も見えていますね!

飛び立った特攻隊員たちは

この勇姿をみながら

故郷日本に別れを告げたのでしょう・・

慰霊の鐘というのか、

プロパンガスの頭を切ったような

梵鐘が吊るされています。

特攻基地を向き鐘を鳴らす妻。

合掌。

B25墜落搭乗員慰霊碑

山砲座跡から、

B25墜落搭乗員慰霊碑へ。

墜落現場の畑にポツンと建つ慰霊碑は、

知っていなければ、

通り過ごしてしまいそうです。

参道を奥へ。

この慰霊碑を建てられた方は、

天空の城、竹田城がある、

兵庫県朝来あさご市の方なのですね!

ちょっとびっくりです。

アメリカ人に敬意を表してか、

メインの言葉は英語で、

日本語訳が下に付けられています。

「昭和20年8月7日

知覧基地からの対空砲火をうけ墜落。

搭乗員全員が戦死した。」

このように記され、

6名のお名前が刻まれています。

そして最後に

「上記6名の魂の平安を祈るとともに、

将来に続く日米の友好と世界の恒久平和を願う」

このように結ばれています。

慰霊碑の前のコスモスが、

一輪だけ咲いていました。

B25の搭乗員の魂が

宿っているかのように・・・

7月半ばというのに、

咲いてくれた事に感謝です。

 

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