大阪護國神社・浪速宮

 

パンフレット

大阪護國神社のパンフレットは、

最新情報が掲載された

真新しいバージョンでした。

在庫のパンフでも事足りる場合、

「更新」するかしないかは、

主体となる人の「思い」プラス、

経済的な理由でしょうが、

この最新パンフにより

大阪護國神社のお考えが

僕の心にダイレクトに伝わり、

この日参拝できたことを

改めて喜び、かつ感謝しています。

四面見開きの表面(右)と裏面。

見開き。

以下、御由緒を書き出します。

「当社は、かつて大阪に戦没者の御霊を

恒久的にお祀りする神社が

存在しなかったことから、

昭和15年(1940)に創建されました。

昭和12年には支那事変が始まっており、

戦地で亡くなった

多くの大阪府出身の将兵に対し、

その尊い犠牲を思い、

「朝夕いつでも英霊にお参りし、

その功績を後世に伝えたい」という願いが

府民の間に高まっていました。

この機運を受け、

時の大阪府知事が奉賛会長となり、

官民一体となった取り組みにより、

内務大臣指定の

護國神社として建立されました。

しかし、昭和20年の敗戦後、

神社は大きな試練に直面します。

進駐軍の厳しい監督下で、

慰霊祭は禁止され、

神社名の改称を余儀なくされました。

やむなく、浪速興隆の礎を築かれた

仁徳天皇を新たにお祀りして

社号を「浪速宮なにわのみや」と改め、

辛うじて存続を許されました。

その後、昭和27年に

サンフランシスコ講和条約が発効し、

日本が主権を回復すると、

ようやく「大阪護國神社」の社号を

復することができました。

この様な経緯から、

現在も境内の浪速宮には

仁徳天皇を奉斎しております。

戦後復興とともに社殿の整備も進められ、

昭和38年に府民、官公財界の協力を得て、

本殿・社務所が竣工し、

境内が整備されました。

当社は皇室からの御崇敬も篤く、

昭和45年には昭和天皇・香淳皇后両陛下、

昭和53年には皇太子同妃両殿下

(現上皇・上皇后両陛下)の御親拝を仰ぎ、

これまでに各宮殿下の御参拝は

21回を数えます。

境内には、大阪の師団や聯隊が建立した

慰霊碑が21基あり、

さらに戦争遺児から奉納された母子像や、

特攻隊員の慰霊を目的とした

特攻勇士の像もあり、

合わせて23基の碑が並んでいます。

それぞれのご縁の日には今も慰霊祭が行われ、

英霊への感謝と追悼の祈りが

絶えることはありません。

令和の今日に至るまで、

大阪護國神社は、戦没者の御霊を慰め、

この功績を後世に伝える場として、

多くの方々に支えられ歩続けています。」

やはり、

GHQの神道指令の圧力で、

生き残りのために

改名をせざるを得なかったのは、

多くの護國神社と同じですね・・

また最後に記された、

「この功績を後世に伝える場」

これはその通りですよ!

ご英霊の方々なくして今の日本は

ないのですから・・・

内面。

憲政殉難之碑

旅の2日目に参拝予定だった

兵庫縣神戸護國神社の

事前情報を得る為に

YouTubeを見ていた妻が、

たまたま、

関連動画で発見したのが、

大阪護國神社の安倍元首相の顕彰碑、

「憲政殉難之碑」です。

拝殿右横から北鳥居方面へ。

見えて来ました。

建立されて間もなく、

何者かが石碑にイタズラをしたとか・・

だからなのか、

厳重に柵がしてありますが、

参拝に支障はないようです。

参拝。

昭恵夫人の碑文と

安倍氏の

「板垣死すとも 自由は死せず」

夫婦合作ですね・・

殉難碑後方を確認。

「日本国の行く末を憂い

平和と繁栄の体現に生涯を捧げられた

安倍晋三元内閣総理大臣を偲び

その不屈の信念と

揺るぎなき指導力を讃えます

志半ばにして非業の死を遂げられたこと、

その無念は計り知れず、

深い哀悼の意を表し

偉大なる遺徳と足蹟を

今を生きる私たちは受け継いでまいります。

ここに深甚なる敬意と感謝を込め

御魂安らかならん事を祈ります。

二〇二五年七月建立 寺内俊太郎」

安倍氏が奈良県大和西大寺駅前で

凶弾に倒れたのが3年前の7月、

その直後、全く偶然に

奈良旅行をしていた僕たちは、

はからずも、

駅前の献花台でお参りできる事に・・・

そして、

ここでまたもや偶然が・・・

殉難之碑の後ろの鳥居に、

一羽の鳩が座っているのです。

僕たちがいる間中、

ここでまったりして、

お休みになっていました。

これを見て、

僕も妻も同時に思い出したのが、

友人K氏が主催する

那国王の教室」で知った、

博多の豪商、神屋宗湛の

宗湛日記に書かれた

秀吉と織田有楽斎を

神屋邸に迎えた時の一節です。

「秀吉が部屋にいる間、

庭の木に一羽の鷹がずっといて、

秀吉が帰るとその鷹は

飛び去った・・不思議だ」

この鷹は、秀吉が切腹させた

千利休の魂だったのでは?

とのK氏の解説と

この鳩が、シンクロしたのです。

平和の象徴、「鳩」は、

安倍氏の魂だったのか・・・も

浪速宮

パンフレットの解説にあった、

護國神社の生き残り戦術として

仁徳天皇が祀られた浪速宮へ。

御社殿正面。

以下、案内の抜粋です。

「御祭神は、世界最大の墳墓で有名な

仁徳天皇と、

世界の海戦史に奇蹟と讃えられる

日本海回線を完全勝利に導いた

東郷元帥の二柱の神様をお祀りしています。

大東亜戦争敗戦後、

日本を占領した米国により、

全國の護國神社では

英霊の祭祀が禁じられました。

神社の消滅を避けるため、

大阪護國神社では

仁徳天皇を御祭神とした

「浪速宮」と改称しました。

昭和二十七年に元の

「大阪護國神社」に復称しましたが、

この時に御祭神仁徳天皇を

奉安殿(現浪速宮)にお祀りしました。

もう一柱の東郷元帥は、

昭和二十三年に元帥の御遺髪が

関係者より奉納され、

奉安殿に安置された事から、

御祭神としてお祀りされる事となりました。

御遺髪は現在も御神体として

御殿にお鎮まりになっています。」

GHQの統治下、

大阪護國神社を守り抜いてくださった

仁徳天皇と、

ロシアの奴隷になるか否かの

瀬戸際を救った東郷元帥・・・

御英霊の鎮魂と、

その功績を後世に伝える場に相応しい、

二柱の御祭神ですね。

参拝。

ここでの注目はこちらです・・

鉛筆艦船画の第一人者、

菅野泰紀氏が奉納された実筆画です。

日本海海戦において、

東郷元帥が乗船していた戦艦「三笠」、

まさかここで見られるとは、

思いもよらぬこと、

しかも富士山が背景とは、

こりゃ〜たまらんですな〜!

ちなみに絵馬も三笠です。

慰霊碑

最後に慰霊碑へ。

「あゝ特攻」

前世が特攻隊員だった妻(多分)には、

特別なものでしょう。

東側の慰霊碑群。

楠木正成像でしょうか、

いくつかの慰霊碑には、

騎馬武者の銅像がありました。

西側の慰霊碑群。

親切な案内。

多くありますが、

代表してこちらに参拝。

「貴様と俺と翼の碑」

案内には、

予科練のことが記され、

「予科練という紅顔のさきがけありと

後世に伝え、世界の平和と

子孫の繁栄をこい希い本碑を建立 嗚呼」

このように結ばれています。

この春、茨城県阿見町の

予科練平和記念館に行ったばかりなので、

「嗚呼」の二文字が、

胸に迫り来るような気がします・・

最後はツーショットで〆。

この後は、

御英霊の皆様が残してくださった

平和な日本で大阪・関西万博を

大いに楽しませていただきます!

 

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