法華堂跡(鎌倉市)

 

見所は3つ

元は源頼朝の持仏堂だった法華堂。

そこに頼朝の墓が建てられ、

その後、東側の別区画に

「北条義時の法華堂」が建てれていて、

ここが今回「法華堂」として

訪問した場所になります。

ここでの見所は3つ。

1つ目は、

北条義時のお墓だった

法華堂(建物)の跡、

2つ目は、

三浦一族が供養されているやぐら、

そして、

3つ目は、

近世墓である、

毛利季光、大江広元、

島津忠久の墓所です。

頼朝さんも後から

色んな住人がやってきて(笑)

ちょっと苦笑しているかも知れません。

北条義時の墓(法華堂跡)

頼朝さんのお墓から

一旦石段を下り、

少し東側に歩くと、

義時さんの法華堂入口が見えてきます。

お墓の揃い踏み(笑)

法華堂のエントランス。

両サイドの燈籠は、

安政五年(1858)の寄進で、

毛利家の家紋、

「一文字三つ星」が刻まれています。

法華堂跡の案内を抜粋すると

以下になります。

「この平場は、鎌倉幕府2代執権の

北条義時の法華堂(墳墓堂)が

建っていた跡です。

(中略)

義時は貞応3年(1224)に

62歳で没しました。

「吾妻鏡」には、源頼朝の法華堂の

東の山上を墳墓の地とし、

そこに新法華堂(義時の法華堂)を

建てたことが記されています。

義時の法華堂は鎌倉時代の

終わりには途絶えたようですが、

平成17年(2005)に

行われた発掘調査により、

8.4m四方の平面正方形の

建物跡が確認され、

「吾妻鏡」の記述が裏付けられました。」

なんか雰囲気ありますね。

法華堂跡。

案内を書き出すと、

以下になります。

「平成17年(2005)に

行った発掘調査によって、

建物の縁束の礎石、雨落溝、

柱を支える礎石を据えていた

痕跡が発見され、

この場所に一辺が28尺

(8.48m)のお堂が

建っていたことが明らかになりました。

調査では瓦が出土していることから、

瓦葺の建物だったと考えられます。

また、一緒に出土した

かわらけなどの造物の年代から、

建物は13世紀末から

14世紀初頭頃には

使われなくなっていたこともわかりました。

正面の地面には、

その建物の柱の位置を杭と石で、

雨落溝を玉砂利で示しています。」

北条氏滅亡が14世紀初頭ですから

使われなくなった意味も分かる気がします。

そいて、この案内と共にあるのが、

こんなものです。

現代の最先端技術による、

一気に13世紀への誘いです!

お~!法華堂がありますよ!

義時さんも喜んでいるかな?(笑)

と思いながら・・

お墓だったのに、

お参りするのを忘れた~(汗)

法華堂の後ろからは、

大蔵幕府跡

小学校が見えています。

北条家の人々も、

義時さんにずっと見守って貰いたくて、

ここにお墓(法華堂)を建てたのでしょう。

(近くなので参拝が楽だった?・・笑)

三浦氏の供養やぐら

法華堂跡の後方に

横穴を発見。

行ってみるとそこは

ここ法華堂で一族が滅亡した

三浦氏の供養やぐらでした。

案内を要約すると

以下になります。

「宝治元年(1247)の

宝治合戦において、

北条時頼に攻められた

三浦泰村以下一族276人は、

源頼朝法華堂にこもり

自害したと伝えられています。

源頼朝法華堂があったとされる地とは

60mほど離れていますが、

ここは自害した三浦氏一族の

供養が行われているやぐらです。」

「やぐらとは?

13~15世紀に造られた

横穴式の墳墓のこと。

鎌倉とその周辺に多く見られます。」

三浦泰村のお父さん、

三浦義村は、トリッキーな生き様で、

見事に権力闘争を切り抜けたけど、

息子にその遺伝子は

無かったのか・・・

それとも

滅ぼされる運命だったのか・・・

やぐらへ。

参拝。

3つの近世墓

次に、法華堂の裏手の山にある

毛利季光、大江広元、

島津忠久の墓所へ。

案内。

左が、毛利季光、

大江広元墓への参道、

右が、島津忠久墓への参道です。

まずは左から。

もうすぐお墓。

大江広元の墓。

案内によると

「文政六年(1823)、

毛利斉煕により

雪ノ下の鶯谷(鶴岡八幡宮の西側)に

造営されましたが、

大正10年(1921)

この地に移されました。」

このように記されています。

山口県の神社やお寺には、

この「カメ碑」が多く見られますが、

やはり、ここにもありました!

参拝。

次に毛利季光の墓へ。

大江さんと同じく、

文政六年に建てられ、

その後、ここに移転しています。

こちらにも亀さんが(笑)

参拝。

次に島津忠久の墓へ。

案内によると

「鎌倉幕府の御家人で、

薩摩藩主島津氏の祖にあたる人物です。

平家追討の恩賞として、

南九州島津荘の惣地頭に任ぜられました。

島津家には、忠久が頼朝の

庶子であったという説が伝わっており、

安永8年(1779)、

薩摩藩主島津重豪が頼朝墓に近い

この地に墓を造営しました。」

このように書かれています。

こちらは「カメ」ではなく(笑)、

普通の石碑です。

参拝。

これにて、

法華堂跡の訪問は完了です。

 

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