西郷南州顕彰館(鹿児島市)2階展示
気になる石塔
西郷南州顕彰館の建物裏側で、
古い石塔を発見しました。

これを偶然目に出来るのは、
別館にある学習室または、
トイレを利用した人のみで、
外からは全く見えないレアものです。

漢文がつらつらと刻まれていますが、
説明などもない割には、
かなり大切に扱われているようで、
大いに気になったのですが、
「伊敷村」という漢字以外、
理解できません(汗)
頂上部分が角錐形なので、
神道式の墓石かも知れませんが、
一体これは何でしょう?
パンフレット
パンフレットなど紙媒体の資料は
全てデジタル化して残す。
または、
読み返さない確率が高いなら
残さずに捨てる・・・
これが物を増やさないコツだと知りながら、
なかなか手をつけられなく、
従って部屋も片付かないという
無限ループ(笑)の今日この頃、
とりあえず、ブログで残すという手法で
その場しのぎをしています。

パンフ表面。
ここで印象に残るのは西郷に対する
土佐藩出身の二人の言葉です。
■坂本龍馬
「なるほど西郷という奴はわからぬ奴だ。
少しだけたたけば少しだけ響き、
大きくたたけば大きく響く、
もし馬鹿なら大馬鹿、
利口なら大利口だろう。」
西南戦争こそ西郷さんの
大馬鹿&大利口の
真骨頂だったかもですね・・・
■中岡慎太郎
「徳高くして人を服し、
しばしば艱難を経て、
すこぶる事に老練す。
その誠実、
武市半平太に似て学識のあるは、
実に知行合一の人物なり。
これ即ち当世洛西第一の英傑にござ候。」
やはり奄美での五年間の苦行が、
若くして「老練」となる
近道だったのかと・・

内面。
ここでの注目は、
西郷の軌跡年表の1868年、
江戸無血開城に向けての
「勝海舟と会談」の一つ前、
「山岡鉄舟との会談」です。
1階の展示に鉄舟さんの功績は
記されていませんでしたが、
パンフにはちゃんとありました(笑)
鉄舟さん良かったね!
2階展示
「南州翁遺訓」からスタート。

「菅実秀」
「庄内藩家老。
庄内藩敗北後の、
西郷隆盛の寛大な処置に感激。
明治四年(1871)に初めて西郷に会い、
その人間性に大きな感銘を受ける。
菅はその後、西郷と親睦を深め、
その教えを受け、
後にその指導を受けた人たちの手記をもとに
「西郷南州翁遺訓」を編集した。
庄内での菅の重みは、
鹿児島における
西郷に匹敵すると言われる。」
「「南州翁遺訓」は、
西郷が生前に語った言葉や教訓を収録し、
東北の鶴岡(旧庄内藩)で
発刊されたものである。
戊辰戦争で頑強に抗戦した庄内藩は、
降伏後、厳しい処分が行われるだろうと
覚悟していた。
しかし、処分は寛大で、
武士として何の辱めも受けなかった。
この処分の命令が
西郷から出されたことを知った
庄内藩主酒井忠篤(ただずみ)は、
西郷の偉大な人徳を知り、
多くの家臣と共に鹿児島を訪れ、
西郷の教えを受け、交わりを深めた。
その後庄内の菅実秀(臥牛)
(すげさねひで がぎゅう)らが
西郷が東京に居るときはもちろん
鹿児島に引き上げた後は
鹿児島まで教えをうけに行っている。
教えを受けた人々は、
またそれを書写して自分の心のより所として
まなんだものである。
西郷の哲学が語られており、
人間の生き方、
政治社会のあり方が示されている。
明治二十二年、西郷が、
憲法発布の大赦後、罪を許されると、
庄内の人々が「南州翁遺訓」として
二十三年一月に刊行し、
その後全国の心ある人々に
配布されたのである。
文字通り風呂敷を背負って、
全国を行脚しての配布であり、
西郷南州翁と庄内の先人たちの、
魂の交わりの結晶である。」
本当に人生(人)とは分からない物・・
昨日まで敵であった人々が、
後に地元薩摩人々と同等かそれ以上に
西郷の一番の理解者であり、
顕彰者になるのですから!

鹿児島市と鶴岡市、徳の交わり。
両市は昭和44年11月7日に、
兄弟都市盟約を結び、
交流を深めています。

西郷隆盛と言えば「敬天愛人」。
ポスターにこの言葉の解説があります。
「道は天地自然の物にして、
人は之を行うものなれば、
天を敬するを目的とす。
天は人も我も同一に愛し給うゆえ、
我を愛する心を以て人を愛する也。
南州翁遺訓第二十四章より」
自分を愛するのと同じく人を愛する、
間違いなく素晴らしい遺訓です!
これを小さい時から実践出来れば、
僕の人生も180度違ったと思います。
僕の場合、
「自分を愛する」が抜けていた事が、
全ての問題なのですが・・・(汗)

2階展示室の風景。

上野から東北へ。
「明治元年(1868)9月22日
会津城(鶴ヶ城)開城降伏
明治二年(1869)5月18日
箱館・五稜郭開城(戊辰戦争終わる)」

その後、西郷は鹿児島に帰るも
勅命で参議となり国政に参加し、
数々の改革を行なった後、
遣韓論に敗れ下野し帰郷し、
その後、西南戦争へ向かいます・・・

14 ジオラマ
「明治6年秋、
参議を辞職して帰郷しました。
やがて吉野台地寺山に開墾社を創立して、
生徒達と共に開拓の鍬をふるい、
大自然を相手の生活にかえりました。」

私学校。
「明治7年6月、西郷に従い
官を辞し帰郷した者を中心に、
銃隊、砲隊、幼年学校、
諸郷私学校を創設しました。
篠原国幹と村田新八が監督でした。」

「西南戦争」
「政府が鹿児島にある
武器弾薬を県外に移送しはじめたこと、
政府派遣の密偵による
西郷暗殺計画が発覚したことにより、
私学校徒が激怒暴発して
戦争に発展しました。
明治10年2月15日より9月24日まで、
激しい戦いをしました。
薩軍の編制は出発時1万3千人、
宮崎、熊本、大分、福岡の協力隊7千人、
補充徴募兵1万人、合計3万人で、
戦死者約6,800余人でした。
政府軍兵力は6万人で
戦死者6,971人でした。」
ちなみに戦死者以外に、
戦場となった地域の住民にも
多数、犠牲者がおられます・・・

遺品の硯と筆。

遺品のマント。

戦いの明暗を分けた、
薩軍の旧式、エンフィールド銃(上)と
官軍の新式、スナイドル銃。
やはり戦争は科学技術があってこそ
人の力も発揮出来るという
冷酷な結果ですね・・・
精神論ばかりに傾倒した
第二次世界大戦時の日本軍の中枢、
こんな教訓も忘れていたのですよ・・
歴史をしっかりと
学んでいなかったのでしょう。

17 ジオラマ
「明治10年9月24日、官軍総攻撃の朝、
西郷は、洞窟を出て、
薩軍最前線の岩崎谷口陣地に向かう途中、
官軍の弾丸があたり、
その場に座して、東天遥かに皇居を拝し、
「晋どん、もう、よかろう」と
別府晋介に首をはねよと命じました。
49歳8か月の生涯でした。
西南戦争で薩軍は賊軍となりましたが、
天皇と国民を敵とするものでは
ありませんでした。」

右から辺見十郎太、西郷隆盛、
別府晋介、桐野利秋。

右、村田新八、左、池上四郎。
この「島津応吉邸」前で、
西郷さんに弾丸があたり、
最後の時を迎えるのです・・・。

岩崎口の堡塁に向かう薩軍。
以下、
ジオラマの案内から抜粋します。
「この堡塁をめがけて集中する
砲火と銃槍隊の突入により、
村田、桐野、別府、池上、辺見以下
39人が玉砕した。
この日、薩軍で戦死した者は160人、
負傷して捕えられたものは
200人余だった。
全ての戦いが終わり、硝煙が静まると、
やがて、天地にとどろく雷鳴とともに
激しい雨が降り始め、
横たわる薩軍兵士の血や泥を
洗い流してくれた。」
激しい雨は、
西郷さんの涙雨だったのでしょう・・・

「西郷隆盛の辞世」
以下は、
城山で自決する1か月前、
延岡の可愛岳突破の前夜、
西郷が書き残した辞世の詩の
現代訳です。
「肥後や豊後への路は
すでに窮まってしまい前には進めない。
故郷の墓所へと帰り行こう。
維新の完遂のため心ならずとも
覇を唱える結果になったが、今はむなしい。
自分の半生を振り返ると、
功罪二通りの跡を残してしまった。
あの世でいったいどんな顔をして
照国(島津斉彬)公に
おあいすることだろうか。」
西郷さんらしい、
謙虚な物言いですね・・・
「功罪二通りの跡を残してしまった。」
人間誰でも同じですよ・・・
良いこともそうでない事もある・・
それが「人生」というものですから。
あの世で再会した島津斉彬公からは、
「西郷よくやった!ゆっくり休めよ」
そう労いの言葉を
かけられたに違いありません・・・

パノラマ西南戦争戦跡。
特別展 収蔵品逸品展
特別展は撮影不可なので、
パンフレットのみでの紹介です。

表面。

裏面。
西郷南州書「敬天愛人」、
西郷さんの人柄が
滲み出ている気がします。
レクイエム(鎮魂曲)
展示から壁を隔てたベンチの前には、
次のような案内があります。

「ベンチに座ると曲が流れます」

お〜流れた!
西南戦争で戦死した薩摩藩士への
レクイエム、
静かに聴かせていただきました・・
お見送り
充実した時間を過ごし、
西郷さんの偉大さを感じつつ館外へ。

ありがとう、西郷南州顕彰館!
そして駐車場へ着くと、
思わぬお見送りの方が
お待ちになっていました・・・

上品な三毛猫です。

僕たちを見送ってくれて、
本当にありがとう!