佐和山城(滋賀県彦根市)前編
お寺の境内地
佐和山城は、龍潭寺と清凉寺、
二つのお寺の境内地にあり、
登城のスタートは龍潭寺からで、
山に入って行くと、
途中から清凉寺の寺域に入ります。
特に本堂前など主な境内地が
登城コースとなっている龍潭寺は、
ブログを書くに当たって、
お寺とお城の区別がつけられません(笑)
従って、この前編では、
主に龍潭寺での見聞が主となっています。
駐車場にて
清凉寺を拝観、
井伊直政のお墓に参った後、
ふたたび駐車場に戻り、
佐和山城へのルートを確認。
駐車場にデーンと配置された
切妻屋根の佐和山城跡の大看板。
大看板の裏側。
佐和山城跡の解説と年表。
鎌倉時代にこの付近に
佐々木氏の館が造られ、
その後、戦国の世になり、
佐和山城は要害の地として
激しい攻防が絶えず、
浅井久政、京極高広、
浅井長政、六角義賢、そして、
再度、浅井長政と城主は変わり、
姉川の戦い後は、浅井氏の家臣が
籠城するも織田信長に降伏、
城は織田信長の手中に。
本能寺の変後は、秀吉の配下、
堀尾吉晴が城主となり、
その後、
石田三成が城主となっています。
佐和山城ゆかりの戦国武将、
浅井長政と石田三成。
この後、無人案内所で見つけたのが、
こちらのパンフレットです。
いや~テンション上がる
表紙デザインですね!
三成さんのスローガン、
「大一大万大吉」があしらわれ、
どういう訳か一瞬、
岐阜関ケ原古戦場記念館の姿を
思い浮かべてしまいました。
「大一大万大吉」とは、
「万人は一人の為、
一人は万人の為尽くせば
みんなが幸せになれる」
みたいな意味で、
戦国の世を終わらせ、
平和を願っていたのは、
三成さんも同じですね。
佐和山城の見所の案内も完璧。
見開きの中のマップは、
龍潭寺から本丸跡までの
ルートだけでなく、
高低差や所要時間なども
わかり易く案内され、
素晴らしい内容となっています。
これを片手に
いざ、佐和山城へ!
佐和山ハイキングコース入口
入口は冒頭でも書いたように、
龍潭寺となっています。
龍潭寺の看板。
向かって左側に建つ、
井伊直弼の嫡子、
井伊直憲公のえい髪塚。
幕末、明治維新と激動の時代を担った、
藩主への顕彰碑です。
龍潭寺入口。
佐和山ハイキングコースの案内。
野生の猿が出るようです(汗)
門をくぐって進みます。
石田三成像
そのまま行くと、お城への道ですが、
突き当りを右に折れ、
その先をまた右に折れ、
並行した道を戻って
先に石田三成の銅像へと向かいます。
右側に見えていますね、銅像が。
石田三成公像。
案内本文を書き出すと
以下になります。
「石田三成公は永禄三年(1560)
長浜市石田に生まれる。
天資聡明観音寺での
真心の献茶が出世の糸口となり、
秀吉公に見込まれて長浜城で錬成され、
次々に出世し僅か二十六歳で
五奉行の筆頭に登った。
秀吉の日本国平定に際しては
東奔西走抜群の功績を挙げ、
水口城主から
佐和山城二十三万石の城主となったが、
その稀に見る温情施策が
住民の徳望を集めたことは、
その没後ひそかに祠られた
夥しい石田地蔵によっても偲ばれる。
大河の赴くところ
その帰趨は自ら明らかであった
関ヶ原の一戦に敢然立って
潔く散った最後はまことに壮烈そのもの、
まさに武士の鑑というべきである。
時に年四十一才。
慶長五年(1600)の秋であった。
貴公より受けた恩義を忘れず
終始一貫真心の生涯を送られた美徳は
末永く称えられて世の模範となる。
まさに智仁勇兼備の英傑として
郷土に栄光を放つ。
ここに有志相計って、
公ゆかりのこの地に像を建て
長くその遺徳を
顕彰しようとする次第である。」
三成さん、
何と桶狭間の戦いの年に
生まれていたんですね!
正面。
石田さんの家紋、
九曜紋なんだ~!
斜めから。
静かな中にも闘志を秘めた、
石田三成らしい銅像ですね。
そして、その先にも、
慰霊碑的なものがあります。
石田三成群霊供養。
佐和山観音。
この観音様の下には、
こんなお地蔵様がいらっしゃいます。
案内に書かれていた
「石田地蔵」の一体でしょうか・・・
合掌・・・
山門へ
ここからは回れ右して、
再度、佐和山城へ。
先程くぐった
お寺の門の東側に位置する、
佐和山ハイキングコース入口。
ここから道なりに歩けば迷わず、
お城へと導かれます。
遠くに山門が見えています。
途中、招魂碑に参拝。
山門。
山門に貼られた親切な案内。
手描きの温かさを感じます。
山門をくぐると、
苔むした
静寂な景色が見えてきます。
地蔵堂に参拝。
さらに奥へ。
七福神を過ぎ、
観音堂へ。
大洞観音堂に参拝。
井伊直弼生母之墓
さらに進むと、お墓群があり、
その中の一つが、
井伊直弼の生母のお墓です。
「大老 井伊直弼生母之墓」
「彦根御前(大老井伊直弼ご生母)の墓
戒名要妙院殿瑞宝知誓大姉
俗名 君田富子」
案内を書き出すと以下になります。
「直弼公のご生母要妙院は、
美貌の賢夫人として知られ、
立ち居ふるまいは優雅で、
絶世の佳人であったといわれている。
このようなご生母富子の方を、
藩中の人々は
「彦根御前」という愛称で呼びはじめた。
「御前」と云う尊称で呼ばれたのは、
数多い井伊家側室の中でも
要妙院一人である。
文政二年(1819)二月二十六日、
三十五才を一期として
惜しまれて世を去った。
時に鉄三郎(後の大老直弼)は
五才であった。
天保十二年(1841)
要妙院の二十三回忌法要に
直弼が生母の墓に詣でた時、
墓碑の後ろにあった松の木を見上げ、
亡き母を偲んで詠んだ歌
そのかみの 煙とともに 消もせで
つれなく立てる 松ぞわびしき
誰をなげきの 友と見む
つれなき松も むつまじきかな」
井伊直弼にも
悲しい過去があったんですね・・・
お母様、そして、
直弼さんにも合掌・・・。
この後、
本格的な佐和山の登山となります。
(後編へ続く)