清龍寺(浜松市)後編

 

クライマックス

清瀧寺訪問のメインは、

信康さんのお墓参りです。

徳川家康が天下を取れたのは、

信康さんの死があっての事でしょう。

諸説あるものの、

家康さんにとって、織田信長との

「忍耐強いにも程がある付き合い方」の

クライマックス、

それが信康さんの自刃ですから・・・

山門

寺頭にある信康堂

木造の信康さんを参拝したあとは、

本物のお墓へと向かいます。

山門。

「清龍寺」

案内を書き出すと以下になります。

「当寺は京都知恩院の末寺、

本尊は阿弥陀如来。

天正7年(1579)

9月15日岡崎次郎三郎信康

(徳川家康嫡男)が

二俣城において生害。

時に年21歳。遺骸を当寺に葬り、

法名を

「謄雲院殿前三州達岩善通大禅定門」

といいます。

天正9年徳川家康は、当寺に来臨し、

清水の湧き出るのを見て、

寺名を清龍寺と名付け、

信康に清龍寺殿と

諡(おくり名)をしました。

ここには信康の死に殉死した吉良於初、

当時の二俣城主大久保忠世、

三方ヶ原で討死した中根平左衛門正照、

青木又四郎吉継らの墓もあります。」

本堂周辺

山門をくぐり、まずは本堂へ。

境内。

ここで目立つのが

左右に網をかけられた木です。

「家康公御手植の密柑の分木」

なるほど~そうだったのか・・・

それにしても

実に大切にされていますね!

「この密柑について」

案内を抜粋すると

以下になります。

「信康公の父、家康公が

静岡市の駿府城

植えたと言われています

密柑の木から増やした苗木です。

静岡市長の御配慮により、

枯れた時のためにと

二本頂けることとなりました。

以後、

都田町みやこだちょうの密柑専門家鈴木孝志様に

管理していただいております。」

ちゃんと「密柑の管理者」が

いらっしゃるのですね!

植樹されてもメンテナンスが出来ず、

枯死するものも多々ある中、

こんなに大切にされるとは、

清瀧寺の密柑さん、幸せですよ!

松尾芭蕉の弟子、「其角」の歌碑。

本堂・・その前に気になる場所へ。

本堂向かって左手の鐘楼。

ホンダの創始者、本田宗一郎が

二股尋常高等小学校時代、

この鐘を正午の30分前に鳴らし、

弁当を早く食ったそうです(笑)

「二代目 寿昌梅」

案内を加筆・超訳すると

以下になります。

「信康自刃の時の二俣城主であり

後の小田原城

大久保忠世の室、

寿昌院慈岳元長尼が

信康追悼のため

東京都日野市の百草園に植樹した

梅の木「寿昌梅」を接ぎ木し、

ここに二代目として植樹した。」

先程の密柑といい、

この寿昌梅といい、

清瀧寺の境内に佇んでいると

信康さんを弔う方々の思いが、

心に響いてきます・・・

ちらほら咲いている梅の花。

本堂にて参拝。

三つ葉葵でテンションアップ(笑)

本堂前の案内板。

今年は、やはりこれですね(笑)

信康廟

参拝後、本堂裏手の信康廟へ。

エントランス。

水桶の三つ葉葵に思わず撮影。

石段で奥へ。

信康廟正面。

案内。

先ほどの案内と被るところは除き、

要約・加筆すると、以下になります。

「信康が自刃した時、

この村に浄土宗の寺がなく、

庵室(世捨て人の住まい)があった

この地に、信康の廟所、位牌堂などを

建立した。」

門は閉まっていますが、

かんぬきは開けられますので、

お参りする人には、

ウェルカムと判断。

中へ。

赤い扉の向こうに墓所があります。

錠前は外されていましたので、

かんぬきを取り、

扉を開けて、

直接、立派な五輪塔に参拝しました。

(写真撮影は控えています)

門近くにある

大久保忠世さん達の墓にも参拝。

本堂前にてツーショット完了。

信康さんのお墓が、

こんなに大切にされている事、

肌で知れて、

本当に良かったと思っています。

気になるお地蔵様

本堂向かって右側の木々の中に

一体のお地蔵様があります。

まずは、参拝。

そして、

お顔を見ると・・・

視線、半開きのお口、

このリアルさは何でしょう?

どなたかのお顔をそのまま

再現したのかも知れません・・・

 

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