水上特攻艇「震洋」展示館/長崎県

 

命令責任

自身の命を捨てて自爆する特攻。

家族を思い、国を思い、

純粋に命を捧げた特攻隊の方には、

敬意と感謝の気持ちしかありません。

今日の日本が、

ご英霊の皆様の命の上にある事は、

間違いないのですから・・・

一方、

特攻という人道上許されざるものを考え、

それを冷酷に命令し続けた

指導者たちに関しては、

正直、嫌悪感しかありません。

学校をトップクラスで卒業した

超エリート達が、

自分たちの無能を棚に上げ、

作戦指導の失敗を若年兵士になすりつけた、

全く卑劣な行為が特攻だからです。

終戦翌日の昭和20年8月16日、

特攻隊員へ謝罪の遺書を書いて、

自ら腹を切り裂き、

苦しみ抜いた末に果てた

航空特攻の産みの親、

大西瀧治郎中将など、

一部の例外を除き、

多くの上層部連中は、

命令した責任も問われず、

戦後はのうのうと、

そして何事も無かったかのように

暮らしているのですから・・・

各所で見る特攻についての展示は、

命を散らした人の遺書の展示や、

慰霊・顕彰などが大多数で、

特攻を命じられた背景や、

その理不尽さを表立っては、

伝えてはいません・・・

個人名などは家族の名誉の為に

書けないでしょうが、

少なくとも、

「特攻を命じた上層部は頭でっかちで、

実戦を知らず、無能で責任を取らなった

でくの坊である」

これ位のことを書けば、

「若いのに特攻で亡くなって可哀想」

こんな思いだけでなく、

何故特攻というものが生まれたのか、

今の自分がどんな生き方をすれば、

こんな悲劇を繰り返さないのかを

感じる事ができ、

バランスの取れた、

特攻への理解が深まるのかと思います。

特攻殉国の碑

長崎県川棚町には、

片島魚雷試験場や工廠など、

いくつもの軍事施設があり、

ここ震洋の訓練所もその一つです。

入口。

詳しい案内。

よくぞこれだけの資料が、

残っていたものです。

敷地内へ。

「川棚魚雷艇訓練所跡」の碑。

両脇のフェニックス、

隊員たちが散っていった

南の島を演出しているのでしょうか・・

石碑の手前には、

地元の小学生たちによって

千羽鶴がたむけられています。

参拝。

碑文アップ。

案内文を書き出すと

以下になります。

「昭和十九年、日々悪化する

太平洋戦争の戦局を挽回するため

日本海軍は臨時魚雷艇訓練所を横須賀から

この地長崎県川棚町小串郷に移し

魚雷艇隊の訓練を行った。

魚雷艇は魚雷攻撃を主とする高速艇で、

ペリリュー島攻撃、

硫黄島最後の撤収作戦など

太平洋印度洋において活躍した。

更にこの訓練所は急迫した戦局に処して

全国から自ら志願して集まった

数万の若人を訓練して震洋特別攻撃隊、

伏竜特別攻撃隊を編成し、

また回天・蛟竜などの

特別攻撃隊の錬成を行った。

震洋特別攻撃隊は

爆薬を装着して敵艦に体当りする

木造の小型高速艇で

七千隻が西太平洋全域に配備され

比国コレヒドール島沖で

米国艦船四隻を撃破したほか

沖縄でも最も困難な状況のもとに

敵の厳重なる警戒を突破して

特別攻撃を敢行した。

伏竜特別攻撃隊は単身潜水し

水中から攻撃する特攻隊で、

この地で訓練に励んだ。

今日焼土から蘇生した

日本の復興と平和の姿を見るとき、

これひとえに

卿等殉国の英霊の加護によるものと

我等は景仰する。

ここに戦跡地コレヒドールと

沖縄の石を併せて、

ゆかりのこの地に特攻殉国の碑を建立し

遠く南海の果に若き生命を

惜しみなく捧げられた

卿等の崇高なる遺業をとこしえに顕彰する。

昭和四十二年五月二十七日

有志一同

元隊員一同」

ここに書かれた、

「単身潜水し

水中から攻撃する伏竜特別攻撃隊」

これを考案した上層部は、

狂っていたのでしょう・・

どうやって攻撃を受けず、

敵の船まで水中を潜って到達できるのか、

中学生の頃考えたものですが、

「やったけどダメだった。でも頑張った」

こんな風に「美化」して結論づける

「手段が目的に変わる」という

日本軍の悪い特徴がここに集約されたのが、

伏竜だったと感じています。

左から後ろへ。

これは、

特攻隊員全員のお名前です・・

あらためて合掌。

資料館

特攻殉国の碑の横には、

中には入れませんが、

資料館なるものがあります。

まずは資料館前の事代主神社に参拝。

やはり「海の神様」なので、

ここに鎮座されているのでしょう。

資料館横の

美しく剪定された椿。

妻、記帳中。

震洋の模型。

水上特攻艇「震洋」展示館

次に震洋展示館へ。

綺麗な建物ですね!

資料館に貼ってある案内を

抜粋・要約・加筆します。

「呉海事歴史科学館(大和ミュージアム)に

保存されている震洋1型の設計図を基に、

長崎総合科学大学の林田教授(造船工学)と

特攻殉国の碑保存会事務取扱、

西村の二人が監修し、

更にオーストラリアのキャンベラ市の

戦争博物館に世界で唯一保存されている

実戦に使用された震洋1型を調査のうえ、

時津町の工業模型製作会社で復元した。

塗装については、

米国国立公文書館に保存されている

米軍が終戦直後に撮影した

カラー写真を解析し、

色彩や塗り分け線の確定を行った。」

素晴らしい調査力ですね!

この心の入れ方は、

きっとご英霊の御霊にも

通じているはずです。

資料館に貼られていた諸元。

52Kmほどの速度だと、

同等以上のスピードが出る

多くの米艦艇までの到達は、

ほぼ不可能でしょう・・・

砲弾の嵐の中ですし、

船体はベニヤ板ですから・・・

中には入れないので、

館外から撮影になりますが、

やはり徹底した準備の元に

復元されただけあって、

心に響いてきます・・・

しかも

自爆兵器とは思えないほどの

洗練されたデザインと色彩が、

逆に、

悲しさを倍増させてくれます・・・

先端部。

中心部。

後部。

どこをとっても素晴らしい再現性で、

ただ唸るしかありません!

(本物は見た事ないけど)

「水上特攻艇「震洋」の歴史」

昭和19年4月に試作決定とあり、

もはやこの時期で、

「特攻」は決定事項だったのでしょう。

また、昭和20年3月には、

水雷学校分校を川棚突撃隊に改組と

記されています。

もはや教育する余裕はなく、

ただ「突っ込め」という

破れかぶれの状況が

見て取れます・・・

最後に震洋の訓練が行われた海辺へ。

ご英霊の皆様、安らかに・・・

 

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