針尾送信所・門衛所/佐世保市
空襲されなかった理由
第二次世界大戦末期、
米軍の空襲が激しくなり、
主要都市や主な軍事施設は、
多くが爆撃を受け壊滅状態でした。
しかし、
高さ136mの無線塔が、
3基もある針尾送信所は、
格好の目標だったはずですが、
目立った空襲を受けていません。
それは米軍がこの地域の人に
とっても優しかったから・・
ではありません。
米軍は真珠湾攻撃の前から
日本の暗号を解読していて、
「日本軍に針尾送信所を
しっかりと活用し、
暗号を発信し続けて欲しかったから」
この一点が理由だったと思います。
AIでの回答では塔が堅牢だったからとか、
佐世保市街地に
攻撃が集中したからなどと
書かれていますが、
的外れだと思います。
原爆のデータを最大限に取れるよう、
広島市に本格的な空襲をせず、
「その時の為に」
街も人も温存した米軍ですからね。
水上特攻艇震洋のブログでも書きましたが、
軍上層部の無能ぶりを
ここでも感じてしまいます。
「周囲が爆撃されまくっているのに、
ここだけ空襲されないのは、
絶対に何か裏がある
もしかして暗号が
筒抜けになっているんじゃね?」
そんな思いには、
至らなかったのでしょうか・・・
ただ、
米軍がこの施設を温存した結果、
3基の無線塔をはじめ、
多くの遺構が残っているのも事実で、
世の中、何が幸いするかは、
分かりませんね(笑)
パンフレット
まずは「針尾送信所」で頂いた
パンフレットを書き出します。

「国指定重要文化財
旧佐世保無線電信所(針尾送信所)施設」
「本施設は、
旧日本海軍が大正7年(1918)〜
11年(1922)にかけて
建設した送信施設です。
日露戦争を契機として
無線連絡体制の強化が必要となり、
総工費155万円(現在の約250億円)、
無線塔1基あたり
30万円(現在の約50億円)を
費やして建設されました。
敷地内にある3基の無線塔は、
いずれも鉄筋コンクリート製で
高さ136m、
基底部の直径は約12mの
煙突のような構造となっています。」

「太平洋戦争の開戦を告げた
「ニイタカヤマノボレ1208」を
送信した施設として有名ですが、
そのことに関する資料はなく、
送信したかどうかは不明です。
一辺300mの正三角形に
配置された無線塔の中心には、
電信室とよばれる鉄筋コンクリート造の
通信施設も建設されました。
半地下式一部2階建てで、
床面積約380坪と広大な建物です。
そのほか本施設内外には、
油庫・貯水槽・事務所・兵舎・港湾施設など
当時の建物が残されています。
近年の調査により、
本施設が建設された歴史背景と共に
土木技術や無線技術の面からも高く評価され、
日本の技術発展を象徴する近代化遺産として
重要文化財に指定されました。」
遠景
針尾送信所に向かう途中、
無線塔はずっと見えていましたが、
3基全部をいい感じで撮影できる場所が
なかなか見つからず、
ようやく到達したのが、こちらです。

実際は正三角形に配置されていますが、
とりあえずこれでOKでしょう(笑)
駐車場
Googleマップで近くまで行くと、
案内板が駐車場に導いてくれます。

正面には2号塔が見えています。
そして、視線を左に送ると・・

1号塔です。
針尾送信所にある無線塔のうち、
内部に入れるのは、
3号塔のみなので、
ここは外観だけの見学です。
トロッコ軌道跡
駐車場から3号塔を目指す途中、
いくつかの遺構があります。

「トロッコ軌道」の案内。
「針尾送信所は、
大村湾と佐世保湾の間の海峡の中にある
針尾島に建設されており、
当時、本土との行き来は海路のみであった。
そこで、送信所の建設資材などは
船で運搬され、送信所の西側の
小鯛浦岸壁から陸揚げされた。
建設資材などは、
図1のように送信所まで布設された軌道で
貨車(トロッコ)により運搬されたが、
海岸から380mの区間には
急傾斜の場所があり、
途中にあった巻揚機室のウインチで
貨車は引き揚げられた。
それ以降の平坦部では貨車は人力で動かし、
電信室及び無線塔付近まで移動させた。
写真1に門衛所(案内所)と
油庫の前の軌道が見える。
写真2は、佐世保軍水道工事に使われた
貨車(トロッコ)である。
図1の★が現在地を示す。」
なんと
トロッコは人力で押すのですから
これは大変ですね!
機動力を人力で代用する・・・
当時は仕方ない事だったのでしょうが、
この案内のお陰で、
先人の大変なご苦労の一端を
知る事ができました。

トロッコ軌道の跡(多分)。
油庫
トロッコ軌道跡のすぐ横に、
油庫があります。

油庫。
外壁が石造りなのは、
川棚町で見た、
片島魚雷試験場の油庫と同じですね。

こちらが片島の油庫で、
針尾送信所の油庫とほぼ同時期に
建てられたからでしょうか、
見た目も頑丈っぽさも、
かなり近いものがあります。

「国指定重要文化財 油庫」
以下、全文です。
「油庫は地図1のように
針尾送信所建設当時は、
現在地より東側に
建設されていたようである。
大正10(1921)年に建設されている。
この施設は、ガソリン、軽油、灯油類の
保管庫として建設されたために、
爆発に耐える構造として、
鉄筋コンクリート構造であり、
開口部が少ない倉庫建築である。
周囲の壁面は、切石で構成されており、
電信室と類似の意匠となっている。
建物の基礎の部分は
幅約4.6m、奥行約4.7m、
高さ約4.6mとなっている。
多くの建物が戦後に破壊されたが、
この施設に残されている
少ない構造物である。」

斜め前から。
油庫のすぐ左に車が停まっていたので、
それをギリかわしての撮影です(笑)
門衛所
次に針尾送信所の実質的な入口である
門衛所(現在は案内所)へ。

「門衛所」
以下、全文です。
「針尾送信所への入口は、
地図1のように現在の道路でなく、
門柱のある東側の海の方に
下る道路であった。
送信所への出入りを監視するために、
門衛所が開局時の
大正11(1922)年に建設された。
残されたいたものは、
建物の基礎と石垣だけであった。
当時の石垣と基礎をそのまま保存している。
この写真1に基づいて、
建物の構造を推定し、
大正時代の木造構造物を復元したのが
現在の案内所(写真2)である。
この建物は、地元のボランティアの
詰所となっている。」
凄いですね!
基礎部分をそのまま残して、
木造の案内所を建てたとは。

こちらが案内所です。
基礎部分の石垣(切石)、
しっかりと見えてます!
針尾送信所の入場料は無料ですが、
協力金を入れる箱があったので、
千円札を入れていたら、
案内所の方から
こんなものを頂きました!

長崎名物、「変面」が出来る
クリアファイルです。

クルッと裏返すとご覧の通り
あっという間に変面完了!

案内所の壁には、
針尾送信所の俯瞰写真があり、
この美しい大パノラマを見ると、
ここが戦争遺跡であることを
忘れてしまいそうです・・

門衛所近くの案内板。
以下、全文です。
「日露戦争で無線通信の
重要性を認識した旧日本海軍は、
1922(大正11)年に
針尾送信所を建設しました。
当時の海軍は、
鉄筋コンクリート建造物の研究を
行なっていた時期であり、
佐世保市をコンクリート建造物の
「実験と実践の場」と考えていたようです。
その一環として針尾送信所が
鉄筋コンクリートで建設されたとも
考えられています。
針尾送信所建設後は主に中国大陸、
東南アジア、南太平洋方面に
展開する海軍部隊、
特に艦隊との通信に使用されました。
戦後の1948(昭和23)年には
佐世保海上保安部針尾送信分室が開設され、
海軍の施設をそのまま引き継いで使用し、
海上自衛隊も
1954(昭和29)年の発足当時より
施設を共同使用していました。
しかし、
1997(平成9)年に
海上保安庁の無線施設が
更新されたことにより、
その役目を終えました。
針尾送信所が建設された
1922(大正11)年頃、
無線の主流は長波通信でしたが、
長波による遠距離通信には
高出力の電波と長大な
無線アンテナを使用するため、
巨大な設備が必要でした。
しかし、
1935(昭和10)年頃になると、
短波通信が長波通信にとって代わり、
長波通信は補助的に
用いられるようになったため、
長波通信施設の建設は行われていません。
つまり針尾送信所を始めとする
長波送信施設は、
1920(大正9)年前後の
わずかな時期に建設されたものであり、
電波技術史のなかでの
記念碑的な建造物と評価されています。
さらに、
船橋、原町、依佐美の無線塔は既に撤去
(依佐美は送信機器と塔の一部が現存)
されており、
針尾送信所は無線塔、通信局舎ともに
現存する国内最後の施設となりました。
また、イタリアのマルコーニが
無線を発明した1985(明治28)年から、
わずか27年後には
日本において針尾送信所等の近代通信施設を
極めて完成度の高い土木構造物として
造り得たことは、
日本の近代化の象徴的な
遺産と目されるものです。」
ここで出ました!
マルコーニさんの名前が(笑)
横須賀で戦艦三笠を見学した際、
無線電信室で知った、
日本海海戦の大きな勝因の一つとなった
「無線」です。
この人がいなければ、
日本の運命は違ったかも
知れませんから
ここで改めてマルコーニさんと
出身国のイタリアに感謝です!

針尾送信所今昔物語(笑)
「昔は塔の頂上に一辺18mの正三角形で
重さ9トンの簪(かんざし)がありました。」
このように書かれています。
写真で見ると小さな三角形に見えますが、
9トンとは相当に巨大ですね!
そしてこの後、
無線塔の内部見学へと進みます。
(続く)