高城神社(埼玉県熊谷市)前編
雨だからこそ出会えるものがある
旅の二日目の朝は雨。
という事で、
早朝訪問予定だった山城である
「杉山城」行きは中止し、
国道17号線沿いの鳥居が気になっていた
式内社である高城(たかぎ)神社を
参拝することに。
スマイルホテル熊谷の部屋から撮影。
「雨だからこそ出会えるものがある」
これは、
島根県立古代出雲歴史博物館を皮切りに
過去「雨の日の旅程変更」を楽しんできた
僕たちの経験に裏付けされた格言です(笑)
昨日は早速この「格言」通りに、
雨のお陰で、予定を変更し、
妻の念願だった
東京・恵比寿の思い出巡りが出来たし、
この日も、高城神社はじめ、
全く予期せぬ場所にも導かれ、
格言はここでも生きていたのです(笑)
優しい歩道
ホテルから神社までは、徒歩5分ほど。
恐らく高城神社参拝の
最寄りホテルでしょう。
そう考えると、
スマイルホテル熊谷に泊まったのも
やはり神社さんの導きが
あったのかも知れませんね(笑)
国道17号線沿いの歩道は、
自転車の上下と人道に分けられて、
実に親切な道になっています。
参道
ほどなくして参道の起点に到着。
社号標は国道17号線の際(きわ)。
車が来ないか
妻に見張ってもらいながら撮影(笑)
一の鳥居
二の鳥居。
以前は寛文十一年(1671年)の
ものが建っていたのですが、事故で壊され、
平成十一年に建て替えられています。
長崎の山王神社や、
佐賀の天山神社など、
車が鳥居にぶつかって倒壊した例は
意外と多くありますね・・・
境内入口、三の鳥居。
「高城神社略記」
案内を書き出すと、
「御祭神
高皇産霊尊(たかみむすびのみこと)
由緒
平安時代延喜五年(905年)
宮中において延喜式、式内社に指定された
大変古い神社です。
現在の社殿は、寛文十一年(1671年)
忍城主、阿部豊後守忠秋公が厚く崇敬され
遷宮された建物です。」
このようになります。
ここには書かれていませんが、
本殿・拝殿・手水舎は
昭和20年の空襲でも焼けなかったそうで、
ここに高城神社の強運を感じてしまいます。
また、阿部豊後守忠秋公は、
徳川家光を補佐し、
6千石から8万石の大名にまで
上り詰めた人で、
Wikipediaによると
「鋭敏で才知に富んだ松平信綱に対し、
忠秋は剛毅木訥な人柄であり、
信綱とは互いに欠点を指摘、
補助しあって幕府の盤石化に尽力し、
まだ戦国の遺風が残る中、
幕政を安定させることに貢献した。
関ヶ原の戦いを扱った歴史書・
『関原日記』(全5巻)の編者でもある。」
このように書かれ、
お墓も家光さんと同じ、
日光、輪王寺の大猷院にあります。
常夜灯
境内入ってすぐ右側に、
一基の青銅製常夜灯が見えます。
天保十二年(1841)建立。
昔は対になるものが、もう一基、
あったのかも知れません・・・
案内を要約すると
「この燈籠は高さは、2m75cm。
燈籠の台座には、県内はもとより
江戸・川崎・桐生・高崎・京都など、
広範囲に及ぶ150名もの
紺屋(藍染業者)の名前が
奉納者として刻まれています。
常夜灯は高城神社が藍染業者から
厚い信仰を受けてきた
事実を語る資料として、
また藍染業の盛況を知る
記念碑ともいえる貴重なものです。」
このようになります。
もしかすると
お隣の深谷市で藍染業をしていた
渋沢栄一(天保十一年生まれ)の
お父さんの名前もあるかもですね(笑)
手水舎
常夜灯のすぐ先に見えるのが手水舎です。
なんか、彫刻が凄い!
正面から。
手水鉢には、
「寛文拾一年(1671)五月十五日」
このように刻まれていますので、
阿部豊後守忠秋公の再建当時のものです。
龍神様の彫刻が凄い!
右側、阿形の彫刻。
左側、吽形の彫刻。
柱も繊細に彫刻が施され、
見る者を感動させてくれます。
この時、手水舎も
寛文拾一年(1671)のものと信じ、
「昔の人は凄いよね~!」
なんて語り合っていた僕たちですが、
ネットで調べていくうちに
「昭和14年建立の手水舎」と
書かれたフレーズを発見しました。
昭和だったとしても、
彫刻の素晴らしさは
変わりませんし、
むしろ現代人もなかなか
やるじゃん(笑)って感じですね。
御神木
参道左側には、
ケヤキの御神木がそびえています。
主幹は折れ、
見るからに老木なのですが、
枝葉は元気そのものです。
根っこもほぼ空洞ですね!
樹齢800年とも言われていますが、
それでも元気なのは、
やはりご神木たる所以でしょう!
(後編へ続く)