若山城(山口県周南市)

 

二人の立役者

若山城を居城とした、

陶晴賢(すえはるたか)は、

主君であった大内義隆を

大寧寺で殺し、

明智光秀は、主君の織田信長を、

本能寺で殺し、

ともに仇役となり、

その陶晴賢を滅ぼした毛利元就、

明智光秀を滅ぼした豊臣秀吉は、

それを機に、大いに繁栄しています。

従って、陶さんも明智さんも、

「裏切り者」のレッテルを貼られた、

マイナスイメージの武将ですが、

大きな事を成就させるには、

まずは、有能な武将であり、

部下の協力や人望が必要です。

戦国の世は何でもありの世界、

この二人、善悪を越え、

他人の出世と

新しい時代の到来に貢献した、

影の立役者なのかも知れません。

愛が止まらない

若山城の入口前には、

沢山の石碑や案内が

建てられています。

気になるので、

横の空きスペースに車を停め、

ちょっと見てみることに。

「陶の道・若山城登城のみち」

「陶晴賢公 生誕490年記念」

何だか、陶晴賢さん、

愛されていますね!

「先人の残されし意義ある

若山登城の路

新緑の樹々もなびく

今日この悦びを

大いなるこの悠久の跡 陶の路

弥栄えんことを祈り

心もはずみ 歩く悦びを」

95歳の方が書かれたものですが、

とにかく、陶晴賢さんへの

熱い思いが伝わってきます。

右側の板札には、

陶晴賢公が毛利元就の援軍として、

大内軍を率いて戦った事が

紹介されています。

書き出してみると、

「陶晴賢公の武勇伝

守護大名・大内氏の筆頭重臣だった

若山城主「陶晴賢」公は、

大内氏の傘下にあった

安芸国の毛利元就が

出雲国の尼子氏に

本拠地、吉田郡山城を包囲され、

絶体絶命の時、

「義を見てせざるは勇なきなり」と

「晴賢公」一万の軍勢を率いて

尼子軍を撤退させ、元就を救う。

(1540年12月)

晴賢公20歳 元就公44歳」

このようになります。

ちょっと脚色されて(笑)いますが、

陶晴賢さんへの

「愛が止まらない」って感じと、

晴賢さん決して、

ただの裏切り者じゃなかったんだ、

義を重んじる心はあったし、

大内への裏切りは

「致し方ない事情」も

あったんだという

主張が込められていて、

僕は素晴らしいと思います。

こちらにも二つの石碑があります。

一つ目は、

「陶晴賢公讃歌

西国無双の侍大将

智も勇も

人を越えたり

陰徳太平記」

もう一つは、

「福川に若山あり

陶晴賢の拠りし所と云う

山址連続す

けだし大兵を擁するに非ずんば

以て守りを為し難し

1851年3月7日

吉田松陰の東遊日記」

こんな紹介がされていなければ、

吉田松陰が萩から江戸へ行く途中、

ここを通ったなんて、

全く知る由もありません・・・。

これだけの愛を見せられて、

僕も晴賢愛が芽生えそうかも(笑)

なごみ地蔵に参拝。

「一字なら幸と書きたいこの一年」

なんとも年始ににもってこいの

一句ですね!

まだ若山城に行く前なのに、

「あ~いいところに来たな~!」

なんて思わせてくれる

地元の方々に心から感謝です。

「若山城悠久の歴史」

ここにも愛が詰まっていますね!

普通なら、「若山城の歴史」でしょうが、

さらに、

「悠久」までついているんですから!

冒頭を抜粋すると

「陶氏と若山城

陶氏は1350年~1557年まで

この地方を治め

若山城築城は1470年。

九代目城主・陶晴賢が

1555年10月1日、

毛利元就との厳島合戦に敗れ

事実上滅亡する。」

このようになります。

まさか、お城の入口で、

こんなに時間をかけてしまうとは、

予想外の嬉しい展開です(笑)

二の丸跡駐車場

車に戻り、山腹、

二の丸跡の駐車場へ。

途中、道路の両脇は、

地元の方々の俳句が

数え切れないほど

並んでいるのですが、

車では通り過ごすしかありません・・・

ちょっと残念でしたが、

「愛」は十分感じられたので、

良しとします(笑)

駐車場と展望所。

展望所からの景色。

以前行った回天訓練基地跡

回天神社がある

大津島も見えています。

そして、視線を下げると・・・

「ゴミ拾う人 捨てない人もボランティア」

なんという素晴らしく

ポジティブな一句でしょうか!!

だったら僕達も

いつでもどこでもボランティアですね(笑)

お城の案内版にも俳句が・・・。

「夏草や兵どもが夢の跡  芭蕉」

「若山や 百歳祝う さつき晴れ  キク」

この対比に

思わす笑顔になってしまいます。

「百歳祝う」だけで、

芭蕉は霞んでしまいますから(笑)

そして、真ん中には小学生の句、

「幾度か

武者駆け抜けた

陶の道

われらものぼる

夏草の中」

こちらも情景が思い浮かぶ、

素晴らしい一句です。

ここ若山城での陶晴賢愛は、

まだまだ止まりませんね(笑)

若山城見取図。

これを見て、

「僕達の目的はお城だったんだ」

と、ようやく思い返してしまいます。

それほど素敵な俳句攻めに、

とろけてしまったのでしょう(笑)

本丸

ここからは、徒歩。

案内に従い森の中へ・・・。

整備された道は有り難し!

山城らしくなってきます。

明治33年奉納、

石鎚神社の鳥居。

若山城の最上部、

本丸に到着。

まずは、石鎚神社へ。

参拝。

梵字があり、

神仏習合的な雰囲気です。

本丸に建つ案内。

少し抜粋すると

「若山城は、

大内氏の重臣陶氏の本城で、

文明二年(1470)頃、

陶弘護(ひろもり)が

石州津和野(現島根県)の

吉見氏の進攻に備えて築城したものと

考えられています。」

このようになります。

本丸からの眺望(海側)

こちらは山側。

動画で一気に撮影。

ここでツーショット完了。

畝状竪堀群

本丸下は、畝状竪堀群があります。

案内。

黄色が畝状竪堀群です。

竪堀を見学。

西の丸

次に西の丸へ。

木漏れ日の中、

ちょっとハイキング気分かな?

西の丸には

少ないながらも

石垣が残っています。

別角度から撮影。

西の丸中心部。

ここからの眺めもなかなかですね。

蔵屋敷跡

西の丸からさらに西へ。

蔵屋敷跡に到着。

反対側から撮影。

この後、僕達は、

いきなり山岳救助隊に変身。

神様の采配」として

詳しくブログに書いたように、

このあたりで、滑落し、

怪我をして、メガネを失くし

彷徨う女性と出会ったのです・・・

妻が女性を抱えながら、

山道を下り、

何とか駐車場へ、

そして、病院に搬送・・・

そのお陰で、

山口の若山城は、

和歌山県の和歌山城よりも(笑)

はるかに濃い思い出の地となりました。

これも陶晴賢さんが、

僕達を大歓迎してくださった

賜物かも知れません。

今日の椿

綺麗な椿が咲いていました。

この時は、

僕も妻も女性の救助で

手一杯、頭いっぱいでしたが、

ちょっと癒やされた瞬間です。

 

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