万世特攻平和祈念館・展示

 

無から有へ

万世特攻平和祈念館の創建は、

たった一人の男の「思い」が、

全ての始まりでした・・・

その男の名前は「苗村七郎」。

この基地にいた彼は、

自身の出撃前、

多くの仲間の死を見送りながらも

生きながらえて

万世基地で終戦を迎えました。

その後の苗村氏の人生は、

基地跡も無くなり、

人々から忘れ去れれた

万世特攻基地の記憶を

後世に残す事へ全身全霊で取り組み、

遂に、慰霊施設と、

万世特攻平和祈念館の建立という

文字通り「無」から「有」を

生み出されたのです。

僕たちが旅先の一つとして訪問し、

万世特攻基地から飛び立ち

散華された201名の方々や、

飛行場建設で殉職された

地元の人へ思いを馳せる事ができるのも

全ては苗村氏の存在あってのもの・・・

自分だけ生き残ってしまった・・

きっと苗村氏はそんな思いを

抱えて生きてこられたのでしょうが、

神様は、万世特攻基地の記憶を

後世に伝える役目を苗村氏に託したのです。

そして彼は見事その大役を全うされ

仲間の待つ天空へと

飛び立ったのでした・・・

苗村七郎氏顕彰碑など

祈念館のエントランスには、

苗村氏関連の石碑が二つあります。

「星雲南溟の碑」

以下、全文です。

「生きてしあらば

星雲の志に燃え

祖国を興隆し翔いたであろう若者に

国の危急存亡の時

操縦桿を握らせ

あたら南溟に散華せしめた

この哀惜と痛恨を後世に傳う

平成五年三月二十九日 苗村七郎撰」

最後の一文、

「哀惜と痛恨を後世に傳う」

これが苗村氏の根底にあった

一番の思いでしょう・・・

「星雲南溟の碑 沿革」

「昭和三十五年 不肖の初起により

「太平洋戦争旧万世陸軍航空隊

戦没者慰霊碑建立期成会」が

昭和四十七年五月二十九日

「よろずよに碑」を建立。

その後更に

「万世特攻遺品館」の建設を提唱し、

万世特攻慰霊碑奉賛会と共に募金運動を行い

地元加世田市民、

ご遺族を始め心ある全国の有志からの

一億円を越ゆる募金を基に

加世田市当局の事業として、

ここに「万世特攻遺品館」たる

「平和祈念館」の完成を見るに至れり。

依って、

これが記念にこの碑を建立するものなり。

平成五年五月二十三日

万世特攻慰霊碑奉賛会理事

平和祈念館監修者

苗村七郎」

これは平成五年(1993年)

戦後50年近くを経て、

遂に祈念館が完成した事が

記されていますが、

驚くのは、

クラウドファンディングも無かった時代、

一億円を越える浄財が集まった事です。

やはりここにも苗村氏の「意志」と

散華された特攻隊員の「遺志」を

感じずにはいられません。

祈念館正面玄関の左側に

苗村氏の顕彰碑があります。

「苗村七郎氏を称えん」

「苗村七郎氏は 昭和二十年三月

飛行隊第六十六戦隊の少尉として

万世に前進し

沖縄航空作戦に参加するも

出撃を前に終戦を迎えた

そのわずかな間この地から飛び立った

特攻隊員ら201名もの

若き尊い命が失われた

その無念さを生涯慰霊の決意として

全国を墓参行脚し

多くの遺族より遺品遺書を託された

その後 慰霊碑「よろずよに」の建立

万世特攻平和会館祈念館の

建設などに尽力された。

ここに「至純の心」の継承に

全てを捧げられた偉大な功績を称え

長く後世に継承されることを願い

顕彰碑を建立する

平成二十九年四月吉日

苗村七郎氏顕彰碑建立委員会」

アメリカの方が運営する

神風イメージ」というサイトによると、

苗村氏は飛行教官であり、

二度ほど特攻を願い出るも、

教官としての価値ゆえ、

上官から却下され、終戦まで

生き残ったと記されています。

だからこそ、

「教え子の魂を看取る」気持ちも

あったのでしょう・・・

パンフレット

ここでパンフレットから

いくつか抜粋します。

「ロゴの由来について」

「施設屋根にある

平和を祈る合掌のモチーフと

飛行機が大空へ飛び立つ

イメージを表現しました。

また、下に広がる曲線は

「末広がり」を意味し、

平和への祈りと願いを込めています。」

〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜

「平和への祈りをこめて」

「日本三大砂丘の吹上浜に

昭和19年の終わり頃、

陸軍最後の飛行場が建設されました。

しかし、

終戦間際のわずか四ヶ月しか

使われなかったので、

「幻の特攻基地」と言われています。

そしてこの万世特攻基地から

十七歳の少年飛行兵を含め

201名の特攻隊員が

祖国を護るために

沖縄に出撃していきました。

特攻隊員には遺骨はありません。

しかし、この世に書き残した遺書や

残された遺品があります。

残された品々は時代を越えて、

今に語りかけます。」

2階は撮影禁止ですが、

パンフレットのような遺品が、

数多く、しかもとても分かりやすく

展示されています。

展示観覧

やはり万世特攻基地と言えば、

こちら写真でしょう・・・

「子犬を抱いた少年飛行兵」

まだ十七歳ですよ・・・

この2日後、

全員散華されています・・

Wikipediaによると

この第72振武隊は、

駆逐艦「ブレイン」へ2機が突入に成功し、

大破させるという戦果をあげています。

万世と世の中の動き(年表)

ここ万世に関して見れば、

昭和十七年にはこの地は

起伏の多い砂丘地で飛行場建設には

不適当と判断されたものが、

1年後には、

工事困難でも作れるとなり、

着工されています。

上層部というのは、

自身が追い詰められると

下のものへの配慮が、

全く無くなりますので、

この「結果ありき」の着工も

同じ原理だったかもしれません。

万世基地で多く使用された機体、

陸軍九九式襲撃機の模型。

先ほどの子犬を抱いた特攻隊員たちも

この機体で特攻を行ったようですが、

旧式の機体にも関わらず、

駆逐艦に損害を与えた事は、

「技術を覚悟で補った」

としか思えません・・・

正面から。

爆弾には「必殺一機一艦」の文字。

「カワサキ」とは川崎重工、

オートバイで有名な会社ですが、

昔も今も軍需産業では、

欠かせない存在です。

竹製の爆弾。

ポスター・資料等。

「万世飛行場の軌跡」

「特攻隊員の携行品」

左下の木彫りの仏像は、

元特攻隊員の方の手彫りで、

その記事仏像の上にありました。

特攻命令の翌日終戦となり、

命が助かった方で、

戦友の為、45体もの仏像を彫り、

寄贈されています。

戦後、

この人も苗村氏と同じ気持ちで

過ごされて来たのでしょう・・

「慰霊祭」

昭和47年、慰霊碑「よろずよに」

建立の時の写真です。

アメリカの新聞記事にも

掲載されたのですね・・・

「映像資料室」

当時を知る女性の話などが

上映されていました。

千羽鶴。

2階展示室

2階の展示は撮影禁止なので、

写真はありませんが、

特攻隊員のお一人お一人に、

スポットを当て、

実に丁寧な展示だった事を

思い出します。

また、ここでの特徴は、

特攻隊員だけでなく、

基地を支えたり、

爆撃で命を落とした民間人までにも

細やかな配慮の上、

展示がなされている事です。

やはり、

実際にこの展示を体験すれば、

未来の日本の在り方を

改めて感じる事が出来ます・・・

館内外の統一デザイン

祈念館には、

戦争の傷跡を模したデザインが、

所々にあしらわれています。

零式水上偵察機の展示前の柱。

祈念館の外壁。

デザイナーの思い、

なんとなく受け取った気分です・・

最後は笑顔のツーショットで完了。

日本を護ってくださった、

ご英霊の皆さんも

空の上から笑ってくれたかな?

(完)

 

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