伊良湖岬(愛知県田原市)

 

岬の巡り方

渥美半島先端部、

伊良湖岬の散策路は、

突端の灯台を頂点にほぼ円形で、

海ルートと山ルートの二つがあります。

こちらは日出ひいの石門近くの

駐車場に設置された伊良湖岬のマップで、

これを見ると、

右下の「恋路ヶ浜」横の駐車場に停め、

海岸沿いを時計回りに灯台を目指す

「海ルート」が定番のようなので、

僕たちもこのルートで散策したのですが、

眺望の良さは勿論のこと、

ルートの終盤では、

このマップに載っていない、

思わぬ発見もあったので、

「海コース」は大正解で

間違いないでしょう(笑)

恋路ヶ浜

日出の石門日出園地展望台と巡り、

遂に伊良湖岬に到着です。

午前9時前、

恋路ヶ浜横の駐車場には

まだ数台しか停まっていません。

灯台を目指し散策路を西へ。

いきなりの絶景!

正面には「神が宿る」とされる

神島が見えていますね!

山口百恵と三浦友和の

映画「潮騒」の舞台となった島ですが、

僕は映画は見ていません(笑)

海岸に出て、

恋路ヶ浜から東側を見ると、

日出の石門うち「沖の石門」が

小さく見えています。

双眼鏡を使うと・・

岸の石門からは見えなかった、

沖の石門の「門(穴)」も

バッチリ見えていますね!

伊良湖岬灯台

散策路に戻ってリスタート。

遠州灘、美しい!

誰かのイタズラでしょうか?

かなり写真が破れていますが、

伊良湖岬の秋の風物詩として、

タカやヒヨドリなどの鳥類と、

アサギマダラ(蝶)の渡りが

あることは理解できます(笑)

そして、この直後、

妻が雄叫びを!

「あの船見て!

巡視船じゃない?」

お〜神島方面に

海上保安庁の巡視船が、

急行しているようですね!

ズームしてみると

小型の巡視船のようです。

何の目的なのか?

そう思って見ていると・・・

赤い消防艇らしき船と交差。

「赤と白」、なんか小説の題名みたい?

いやあれは「赤と黒」でした(笑)

ここで大型タンカーが登場!

巡視船はここでタンカーに

寄り添うようにして反転し、

タンカーを守るようにして、

港へと向かったのです。

石油が貴重な今だから、

テロなどの対策に巡視船が

使われているのかも知れません。

タンカーを見てるうちに灯台に到着。

神島&伊良湖岬灯台。

やはり青空に白い灯台、

映えますな〜!

灯台を後にして、

さらに時計回りに歩きます。

漁夫歌人 糟谷磯丸銅像

この歩道脇には、小さな歌碑が、

いくつも建てられていますが、

全部見るほどまでに興味はなく(笑)

目についた一つをここに紹介します。

「世にあおぐ

伊勢のわたりの 近ければ

伊良湖が崎に かよう神風」

この先には伊勢の神宮があり、

そこからくる風は、

神風だという意味でしょう(多分)

いこか・もどろか

灯台を過ぎた頃、

一人で散策していた女性に

声をかけられました・・・

「灯台からUターンして戻った方が、

駐車場まで早いですよね?」

現場はここです。

確かにこの先は見どころが

何も記されていないので、

駐車場に戻るのが優先であれば、

Uターンがベターかとは思い、

「確かに戻った方が近いでしょうね」

そう言いながら、

僕も戻ろうかと思い、

妻に話したところ、

「せっかくだから一周したら?」

こんなお言葉を頂きました・・・

結果、

「あま、一周しようか」と、

妻に従う事に(笑)

相変わらず、

タンカー&ボディガードの巡視船が、

見えてるな〜と思っていたその時、

山側に見つけたのが、

ある人物の銅像でした。

マップにはなかったけど、

何やら立派なしつらえです。

「糟谷磯丸翁」と刻まれています。

短冊と筆を持った、

耳の大きな老人です・・・

案内板にこの方の業績が、

詳しく書かれていましたので、

全文を書き出してみます。

「漁夫歌人 糟谷磯丸」

「糟谷磯丸は、江戸時代、

明和元年(1764)五月三日に

伊良湖村の漁師の家の長男として生まれ、

名前を新之丞といいました。

新之丞が三十一歳の時に父が亡くなり、

母も長い間病気だったため、

小さい時から隣村の日出村へ奉公に出たり、

漁をして家の暮らしを支えていました。

親孝行の新之丞は、

母の病気が早く治るように、

水凝りに体を清め近くの伊良湖明神へ

三年間も裸参りを続けました。

その心が神様に通じたのか、

やがて母の病気は良くなりました。

伊良湖明神に裸参りを続けるある日のこと、

参詣人が神社にある奉納額を

見上げて和歌を詠み上げるのを聞き、

新之丞は和歌の不思議な響きに

興味を持つようになりました。

新之丞三十五歳の頃です。

このことが和歌を志す

きっかけとなりました。

新之丞は、もともと漁師で

読み書きが出来ませんでしたが、

和歌に魅力を感じ、

歌を詠み始めるようになると、

少しずつ読み書きも

できるようになりました。

隣の亀山村に井本常蔭という

大垣新田藩の郡奉行が住んでいました。

常蔭は、幼少より国学を志し、

本居宣長の門に入り、

文武両道の優れた人でした。

常蔭は、新之丞の噂を聞くと、

自宅に招き、その人柄を大変気に入り、

和歌や読み書きを熱心に教え、

「磯丸」という名前を授けました。

磯丸の名前をもらった新之丞は、

ますます歌を作る事に夢中になり、

最初の先生である常蔭を生涯

「師の君」として尊敬しました。

文化元年(1804)、磯丸が四十歳の時、

吉田(現在の豊橋)の女流歌人林織江が

伊良湖周遊の旅(伊良古之記)に

出掛けました。

その時織江の荷物を持って

伊良湖を案内したのがきっかけとなって、

磯丸は織江の師である京都の公家

芝山大納言持豊の弟子に加えられ、

「貞良」の名を与えられました。

磯丸は、この後度々京都の持豊を訪ね、

その家族にも大変親しまれました。

磯丸は、

一般の人々が拝観することのできない、

宮中の行事や歌の会を見聞し、

歌はますますうまくなっていきました。

磯丸は生涯に多くの歌を詠みました。

中でも「まじない歌」は

当時の民衆の暮らし向きや、

磯丸の人柄が良く表れています。

磯丸に詠んでもらった歌を

掛け軸にして床の間に掛けたり、

碑にしたりすると不思議にも

その願いが叶ったのです。

磯丸は人々の困りごとや願いを、

誠心誠意心を込めて

歌にしたと言っています。

老若男女、貧富の差をこえて

多くの人々から尊敬され、

時には生き神様と崇められた磯丸は、

嘉永元年(1848)、生まれた日と同じ

五月三日に伊良湖の地で亡くなりました。

八十五歳でした。

磯丸を慕う人々は、

磯丸を神様として祀ることを願い出ました。

嘉永三年、磯丸の功績が認められ

「磯丸霊神」という名前が与えられ、

神様となりました。

伊良湖はじめ近在の人々は、

さっそく「磯丸霊神祠」をつくり

磯丸の生家の庭に安置しました。

この祠は、現在伊良湖神社境内に

「糟谷磯丸旧里」の

石碑とともにあります。」

これは凄い方ですね!

漁夫から歌人になったとは。

身分制度の厳しい江戸時代でも

何かに秀でていれば、

身分に関わらず敬意を持って

対応する風潮はありますが、

神様として祀られるのは、

珍しいのではないでしょうか。

こちらの石碑にも

糟谷磯丸さんの経歴が記されています。

実はこの少し後、「磯丸霊神」との

偶然の出会いがあったのですが、

この時はそんなことを

知る由もありません。

ただ、「一周しよう」と言った

妻の一言は、

結果的には「神の声」だったのです!

 

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