2021/11/26
治水神社(岐阜県海津市)
御祭神
江戸時代中期、
幕府の命令により、
美濃(岐阜)を流れる、
木曽川、長良川、揖斐(いび)川の
治水工事を薩摩(鹿児島)藩が行い、
多大な人的犠牲を出しながらも
工事を完遂しました。(宝暦の治水)
その難工事で命を落とした総奉行、
薩摩藩家老、平田靱負(ひらたゆきえ)
はじめ、薩摩藩士84柱が、
治水神社の御祭神となっています。
幕府が薩摩の力を削ぐ事が、
この工事の大きな狙いでもあり
それが、これだけ多くの犠牲者を
出した大きな要因でしょう・・・。
また、この治水工事がご縁で、
岐阜県と鹿児島県とは、
50年ほど前、姉妹県となり、
多くの交流を続けており、
最近では、
令和2年に再建された
鹿児島城の御楼門の大扉には、
岐阜県から寄贈された
ケヤキが使用されています。
治水神社
今年のはじめ、妻が
「テレビで治水神社っていうのを見た!」
と僕に話してきたので、
宝暦の治水など、
治水神社建立の流れを一通り説明し、
平田靱負さんの像が
鹿児島市にあると話したところ、
「どちらにも行きたい!」と
興味を持ってくれたのが、
治水神社訪問のきっかけです。
そこでまずは、今年3月、
鹿児島の平田靱負像がある
平田靱負屋敷跡の訪問を完了。
そして今回、念願であった、
もう一つの「行きたい」(笑)である
岐阜の治水神社への訪問となりました。
神社でいただいた、
分かりやすくて素晴らしい、
「治水神社・千本松原お散歩マップ」
全部見てたら帰れなくなるので(笑)
僕たちはマップの真ん中あたり、
大鳥居から上の参拝です。
治水神社は、長良川と揖斐川の
真ん中に鎮座しています。
参道脇から揖斐川を眺めていたら、
左側の黒ずんだ穴に、
沢山の黄蝶を発見!
なんか、治水工事で亡くなった、
薩摩義士の方々が、
蝶の姿で歓迎してくれたような・・・
手水舎。
柱の根巻き銅板、
松の木の形になってますね!
ここは治水工事完成直後、
薩摩藩士たちが、
千本の日向松の苗を植えた
「千本松原」の付け根あたりですので、
きっとその松の木を
意識したものなのでしょう。
向こう側には揖斐川が流れ、
「清水」と書かれた手水鉢には緑が満載、
この光景を見られただけで、
身も心も洗われた気分です(笑)
龍神様のお口から流れる清水、
そして、鉢の中の水も綺麗!
さらに柄杓での御手水だし、
これは最高ですね!
参道脇の「治水昭和之宮」。
「昭和34年の伊勢湾台風の
犠牲者の霊をお慰めするため
翌昭和35年に建立されたもの」
このような案内があります。
大野徳漢詩碑。
社殿が見えてきました。
拝殿右側には、
宝暦治水工事犠沒者の碑。
平田靱負をはじめ、
薩摩義士の方々の名前とともに、
幕府側や地元の犠沒者であろう
方々の名前も見られます。
その最後の方に。
「多良高木新兵衛家来
内藤十左衛門」という名前を発見。
多良高木家は昨年、
僕たちが関ケ原訪問の最後に、
島津の退き口を辿ったときに
訪問したところで、
島津豊久のお墓の近くでした。
その高木家に伝わる
「高木家文書」というものが、
宝暦の治水を詳しく伝える
貴重な資料となっています。
国土交通省のサイトを要約すると
「水行奉行高木新兵衛は、
宝暦治水の監督者の一人です。
高木家は、美濃石津郡の
多良(たら)に在住を許された旗本です。
高木家が幕臣であること、
そしてこの地の土着領主であり
治水技術に精通していたことが、
水行奉行という重要な任務就任の
大きな理由だと考えられています。
(西高木家の当主である)
高木新兵衛が雇ったのが、
後に幕府方で唯一自害した
内藤十左衛門義厚でした。
高木新兵衛は、宝暦治水、
四つの工句のうち、
一之手工事を指揮。
近世史上稀にみる
難事業の竣工に尽力しています。」
薩摩義士とともに、幕府側である
十左衛門さんも頑張られたのです・・・
薩摩義士之像。
楼門前。
右側には宝暦の治水が、
絵と文章で、
詳しく案内されています。
年表。
幕府からの普請命令、
そして、請書にサイン・・・
平田靱負さん鹿児島を出発。
大阪で資金集め。
莫大な借金をすることに・・・
そして、工事始まり、
一人が自害(公には怪我)。
島津重年、重豪とともに視察。
病人続出・・・
完成。
しかし
平田靱負の息子は鹿児島で病死。
さらに、
平田靱負も完成後突然の病死。
(自害説もありますが、
ここでは病死となっています)
檜皮葺の楼門から拝殿へ。
拝殿も檜皮葺。
参拝。
神額は、島津家30代当主、
島津忠重さんの書。
右から拝殿、幣殿、本殿。
真横から本殿に参拝。
「薩摩義士」と書かれたご朱印、
丸十の薩摩藩家紋の提灯とともに。
ツーショットは静粛に・・・。
最後に宝暦治水観音堂を参拝。
この後、観音堂の背後に見えている
展望タワーへ。