高野山・奥之院(11)
一度だけでは・・・
奥之院のブログを書いていると、
見落とした墓所や供養塔が、
あまりに多いことに気付きます(汗)
やはり一度だけでは、
巡りきれていませんね(笑)。
日向高鍋 秋月家墓所
日向は現在の宮崎県。
高鍋藩主の秋月家は
もともとは筑前国の秋月を
居城としていた秋月家で、
秀吉の時代に高鍋に転封、
その後、
関ケ原の戦いでは西軍につき
大垣城に籠城するも
西軍の負けを知って、すぐに
東軍に寝返り、本領安堵。
その後幕末まで続いています。
家を守るには、
なりふり構わず、
行動あるのみですらね!
また、Wikipediaによれば、
「江戸時代中期、6代種美の次男は
米沢藩(上杉家)に入り、
名君として有名な
上杉鷹山(治憲)となるが、
その兄に当たる7代種茂も、
高鍋藩の歴代藩主の中の
名君として治績を上げた。
安永7年(1778年)には
藩校明倫堂を開いた。」
このように書かれています。
あの上杉鷹山が、
秋月さんの系統だったとは、
初めて知りました。
参拝
少し行くと、中の橋、
汗かき地蔵が見えて来ます。
大津籠城戦死者追悼碑
僕のツボにはまったのがここ。
籠城戦の追悼碑なんて、
かなり珍しいものですからね。
関ヶ原の戦いの前哨戦だった、
大津城籠城戦。
籠城するのは京極高次以下3千名、
攻めるは立花宗茂ほか、
1万5千名以上。
京極さんは、関ケ原の戦い当日の
9月15日に降伏し、開城。
一命を助けられ、剃髪して高野山へ・・・
その後、家康からは大津城で
宗茂達の大軍を足止めさせた事を称賛され、
若狭一国の国持大名へ出世。
(家康さん、
論功行賞のツボを心得てますね!
こんな細やかさこそ
家康さんが天下を取れた
大きな要因の一つでしょう)
その後、高次さんの子孫は、
そして讃岐丸亀藩主となり
そこで明治維新まで続いています。
真ん中に、
「大津宰相高次籠城之節討死忠臣○○・・」
と書かれ、両サイドには、
討ち死にした家臣の名前が
一人ひとり刻まれ、
最後に、
「慶長五庚子九月十三日」
と刻まれています。
落城2日前の日付ですね・・・。
伊予松山 松平(久松)家墓所
Wikipediaによると
松平さんが伊予松山城主となったのは、
寛永十二年(1635)。
親藩として西国への
睨みを利かす配置だったようです。
松平さんは、その後転封もなく
幕末まで続いています。
参拝。
三河岡崎 本多家墓所
次は譜代大名、
徳川四天王の一人
本多忠勝を始祖とする本多家墓所へ。
エントランス。
五輪塔ではなく、
丸い大きな石塔となっています。
参拝。
筑前 黒田家墓所
次は黒田家、
外様ながらも徳川家との縁組、
そして養子を迎えたりして、
江戸時代を上手く泳ぎきっています。
中へ。
参拝。
これで完了と思ったら、
奥にもお墓があるようなので
行ってみました。
案内。
文字は見えなくなりそうですが、
何となく読めます(笑)
こちらは石の扉付き。
参拝。
奥州 南部家墓所
奥之院で二つ目の南部家墓所です。
参拝。
加賀 前田利長夫人墓所
加賀藩初代藩主、
前田利長の夫人墓所。
ここに建てられています。
石玉垣に囲まれていて、
かなり立派ですね。
参拝。
安芸 浅野家墓所
浅野さんのお墓も
いくつか参ってきましたが、
ここにもあります。
低めの鳥居。
参拝。
(続く)