高野山・奥之院(6)

 

滅亡と繁栄

川中島の戦いで有名な

武田信玄と上杉謙信ですが、

前者は後継者の勝頼の時代に滅び、

後者は、後継者の景勝以降、

明治維新まで続いています。

何が両者の運命を分けたのでしょうか。

生まれた時からの親子関係、

そして、

紙一重の様々な要因が積み重なり、

運の良し悪しも加味され、

そして、今があるのでしょう・・・

僕達のいる現代も、

さして変わらないようです。

小さな頃から努力して

立派な人間でも

不慮の事故で亡くなったり、

何者かに殺されたり・・・、

悪いことばかりしていても

バレずに、人生を謳歌出来たり・・・。

そんな事を考えながら奥之院にいると、

人間界がノミよりも小さく感じられます。

上杉謙信霊屋

冒頭に書いた

川中島の立役者の一人、

上杉謙信の霊屋(たまや)です。

さすがは謙信さんだけあって、

専用参道がしつらえてあります。

霊屋正面。

左右には

樹齢400年クラスの杉の木が配置され、

まさに威厳ある霊屋です。

案内によると

「重要文化財建物・世界遺産

上杉謙信、景勝の廟墓(びょうぼ)です。

謙信の名は

西暦1574年(天正2年)、

45歳で上洛した時、高野山にも訪れ、

その折贈られた

法名であるといわれています。

位牌刻銘には次のように記されています。

(右)為権大僧都法印謙信

(左)為権大僧都法印宗心

建物は、江戸時代初期頃の

建立と推測されています。

小規模ながら、

霊屋としては古い方に属するもので、

内部は格天井を張り、

須弥壇城には二基の石碑を納めています。

西暦1966年(昭和41年)、

解体修理が施され、

それまでの銅板葺きであった屋根を

檜皮葺に復旧しました。」

このように書かれています。

斜めから撮影。

檜皮葺が綺麗に保たれているのは、

適時メンテナンスを

されているからでしょう。

参拝。

上杉景勝墓所

霊屋の20mほど右にあるのが、

上杉景勝の墓所です。

左側が景勝さん。

参拝。

こちらは、

五代から八代までの藩主の墓。

参拝。

上杉家四代夫人媛姫墓所

ここには上杉家に関わる墓所が

たくさんあるのですが、

その中の一つが目立っていたのが

こちらの墓所です。

四代目夫人の墓。

鳥居まで配置され、

相当に手厚くされていますので、

なにか功績のあった方なんでしょうか?

紀州徳川家二代・三代・四代墓所

次は地元、紀州徳川家の墓所へ。

二代光貞、三代綱教、

四代頼職(よりもと)、

六代直宗の墓所です。

五代が飛んでいるのは、

後の徳川八代将軍となった

吉宗だからでしょう。

ちなみに二代光貞は、

家康の十男頼宣の嫡男で、

吉宗のお父さん。

だから吉宗は、

家康の曾孫だったんですね。

初めて気が付きました(笑)

参拝。

播州姫路 酒井家墓所

目まぐるしく藩主が交代した姫路藩ですが、

江戸幕府が出来て150年、

酒井家入封後は、

明治維新までそのまま続いています。

参拝。

弘法大師腰かけの石

「腰かけ石」は各地で見られるもので、

景行天皇の腰掛石や、

太閤(秀吉)腰掛石宮本武蔵の腰掛石

など、僕達も過去いくつかを見ていますが、

弘法大師さんのもありました(笑)

弘法大師様ですから

さすがに畏れ多くて、

腰掛けてみる気にはなれません(笑)

紀州徳川家七代墓所

次は紀州徳川家七代、

宗将(むねのぶ)さんの墓所です。

参拝。

紀州徳川家のお墓デザインは、

一つ一つに石の扉と石玉垣、

そして灯籠があり、

かなりの豪華版ですね(笑)

(続く)

 

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