高野山・奥之院(7)

 

墓所はいつ建てられた?

奥之院にある墓所や供養塔は、

リアルタイムに近い建立のものもあれば、

お墓の主が亡くなってから

100年、200年後や

明治時代のものなど、

種種雑多です。

なので、いちいち詳しく確認してたら

1年は奥之院で暮らさないと

いけないでしょう(笑)

また、案内と墓所本体が、

一致しているかどうか

不安になるものもあります(汗)

なので、

奥之院を巡る時の心構えは、

「深く考えすぎないこと」(笑)

たまたま出会う墓もあれば、

間違ってしまった墓もある・・・

そして、

見逃した墓もある・・・

それでいいんです(自己完結・・笑)

武田信玄 勝頼 墓所

武田信玄と言えば、

鬼のように強い武将を

想像してしまいますが、

山梨県甲府市の

躑躅ヶ崎館信玄ミュージアム

信玄の菩提寺である

甲州市の恵林寺を巡った時には、

父、信虎とも子供らとも

うまく折り合いがつかず、

大いに悩んだ(であろう)

信玄の人間臭い姿を感じたものです。

案内によると、

「武田信玄は、

好敵手上杉謙信とともに

乱世を生きた戦国武将であるが、

性格直情の中にも

文を学び神仏に帰依し、

その墓所を弘法大師空海の

御傍この奥之院の一隅に求めた。

(中略)

向かって左が武田信玄、

右が武田勝頼供養塔。

(後略)」

このように書かれ、

墓所は、県指定史跡となっています。

参拝。

馬場美濃守信有墓所

信玄・勝頼父子の墓近くに

「武田二十四将

馬場美濃守信有墓所」という

案内を見つけました。

おそらく、

馬場美濃守信房(信春)の事でしょう。

ただ、その案内が、

どのお墓を指すのかがわからず、

案内碑を中心に撮影してみました(笑)

一応・・参拝(汗)

大和郡山 松平家墓所

次は大和郡山の松平家墓所へ。

松平家は系統違いで数多くあり、

Wikipediaによれば、

松平(奥田)家と松平(藤井)家の

二つが大和郡山藩主となています。

どちらの松平さんかは

全く分からないけど参拝・・・。

奥州 南部家墓所

南部と言えば、南部鉄器。

見たことはありませんが(笑)

盛岡藩、南部さんの庇護のもと

南部鉄器は育まれたと

Wikipediaには書かれています。

小高くて、いい場所にあります。

玉垣は崩れていますが、

五輪塔はしっかり健在。

南部さんの家紋は、「南部鶴」。

その中の一部に九曜紋があるので、

それをフューチャーしているようです。

こちらが、「南部鶴」

家紋の画像は、

Wikipediaより拝借。

こちらも南部さんだったか・・・(汗)

豊前 中津 奥平家墓所

奥平さんと言えば・・・

田螺(たにし)(笑)

鉄砲の一斉射撃で有名な

長篠の戦い」の発端となった

武田勝頼の長篠城攻めで、

当時の城主、奥平信昌さんたちは、

長篠城籠城中、兵糧が尽きる中、

たにしを食べて、

飢えをしのいだそうです。

そんな過去を忘れない為、

江戸時代中期に転封し

明治維新までいた中津において、

近年、「たにし祭り」が行われています。

この逸話やお祭りは以前僕達が、

中津城を訪問した時知ったことです。

そして、その時にもう一つ知ったのが、

奥平さんの忠臣、

鳥居強右衛門さんのお話です。

長篠城籠城中の仲間に

援軍がくる事を告げ、

武田軍に殺された鳥居さん・・・

中津城で見た磔の絵は、

今でも強烈に残っています。

参拝。

肥前国鍋島家墓所

鍋島家墓所は、

メイン通りから離れた少し奥にあります。

参道。

案内札に「肥前」の文字が

かすかに見えたので、

ここで参拝・・・

しかし、まだありました(笑)

かなり荒れてはいますが、

こちらがメインなのでしょう。

幕末に大活躍した鍋島直正さんも

ここにいらっしゃるのかな?

さらにもう一箇所。

メンテナンスって大変だ・・・。

信州 諏訪家墓所

高島城主の諏訪家といえば、

戦国時代、武田氏に攻められ、

父祖の地、諏訪を手放し

その後、家康の元で励み、

捲土重来、江戸時代、諏訪に再入封し

明治維新を迎えた、

かなりドラマチックな家柄です。

参拝。

數取地蔵尊

數は数の昔の文字で、

「かずとり」と読みます。

案内によれば、

「俗に云ふ御廟に参詣の輩

數を織(しる)す。

功徳を積ましめなん此石像

旧破甚だしく、四片となりき

地中に埋没せしを延寶年間

大坂の塗師、多左衛門といふ者

霊夢を蒙り所在を知り掘出して

これを合し尊像を旧に復すといふ。」

このように書かれています。

高野山参詣後、妻や僕に起きた

二つの不思議な出来事を思えば、

「霊夢」というものを

素直に信じる気持ちになれます。

やはり高野山、

只者ではありませんでした(笑)

紀州初代藩主 徳川頼宣墓所

徳川家康の十男、

紀州初代藩主のお墓です。

参拝。

多田満仲墓所

次は多田満仲の墓所へ。

正直、どなたかわかりませんので、

Wikipediaから抜粋します。

「源満仲は、

平安時代中期の武将。

清和源氏、六孫王経基の嫡男。

多田源氏の祖で、多田満仲

(ただのみつなか)とも呼ばれる。」

「藤原摂関家に仕えて、

摂津国・越後国・越前国

・伊予国・陸奥国などの受領を歴任し、

左馬権頭・治部大輔を経て

鎮守府将軍に至る。」

「長徳3年(997年)8月27日に卒去。

遺骸は多田院(現在の多田神社)に

葬られた。」

このようになります。

兵庫県鎮座の多田神社本殿は、

寛文七年(1667)

徳川家綱によって再建され、

重要文化財となっています。

そうか・・・

多田神社、行かねば!(笑)

参拝。

信州松本 水野家墓所

水野家は江戸時代の一時期、

松本城主となった家柄です。

なかなか綺麗に保たれています。

参拝。

高松 松平家墓所

先述の通り、

高松藩主の松平家は、

二つの系統があるので、

どちらかはわかりません。

参拝。

高野山町石道

松平家墓所の近くに建っているのが、

高野山町石です。

案内によると

「弘法大師空海が

高野山を開創して以来、

聖地高野山への表参道であり、

信仰の道とされてきました。

その道しるべとして

建てられたのが町石で、

高さ3mを超す

五輪塔婆の形をしており、

根本大塔を起点として慈尊院まで、

1町(約109m)毎に180基、

弘法大師御廟まで

36基建てられています。

「紀伊山地の霊場と参詣道」として、

西暦2004年(平成16年)

7月7日、ユネスコの世界文化遺産に

登録されました。」

このように書かれています。

そんなに沢山あったかな・・・

記憶にありませ~ん(汗)

(続く)

 

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