老松天満宮(佐賀市)御社殿・御神木
拝殿前の石段で・・
神社を参拝後、
「老松天満宮を守る会」のM様と合流し、
拝殿前の石段に腰掛けて、
神社にまつわる色々なお話を伺いました。
途中、同志のK様も加わり、
さらに深堀した歴史を知る事に。
以前のお祭りでは、
参道先の道路まで屋台で溢れていたという
お話が耳に残っています。
人口減少と高齢化、
氏子地域外から
新たに入居する人も多くなり、
神社のあり方は様々な面で
激変している事を改めて認識しましたが、
早速その課題解決の一つとして、
神社の詳細なパンフなどの企画を
実行に移されている事を知り、
そのスピード感には深い感銘を受け、
明るい未来を予感した次第です。
そして、
僕たちの会話は、
すべて御祭神のお耳にも
届いていたではず(笑)
きっと活動の後押しを
して下さるに違いありません!
御社殿
参道の狛犬たちに癒されつつ拝殿に到着。

扉には7年前には無かった、
3枚の案内が貼られています。

とても誠実なお願いですね!

「瓦町・老松天満宮について」と題された
詳しい案内が2枚ありますので、
以下、全文書き出します。
「祭神」
「菅原道真の室
(道真公の北の方、老松女)」
菅原道真の正室は、
道真の詩の師・島田忠臣の
娘である島田宣来子。
幼馴染で仲の良かった
道真と結婚した二人の間には
多くの子供(男子五人、女子数人)を
儲けましたが、
道真が太宰府へ左遷された際には
京都に残り生涯を終えました。」
「由緒」
「源頼朝が家来を
諸国の地頭に任じていたころ、
建久五年(1194年)
武蔵国七党の随一であった
児玉党の宗家である参河守俊治が
この地方に下向して、本城を牟田に築き、
故国の氏神であった
老松大明神を勧請(=分祀)し、
巨勢庄五百余町の崇廟とあがめた。
なお老松大明神の他に、
淀姫大明神、天満宮、乙宮大明神を
あがめたので四社の明神ともいった。
その後、花園法皇の延慶年中
(1308〜1311年)、
立川阿波守一族が、
鎌倉の今泉村から当国に下向し、
巨勢の地に場所を選んで
今泉村と称し館を築いた。
そして老松大明神を今泉村に遷し、
その後宮として
老松天満宮(=道真の室)をあがめたとある。
昭和の中頃までの春・秋の例祭では、
参道に出店・夜店が並び、
舞台では歌・踊り・にわか等の
素人園芸で賑わっていた。
平成の圃場整備事業と共に
踊り舞台も取り壊された。」
これは素晴らしい!
ここまで詳しく調べるには、
相当な労力が必要だったはずですし
それを裏付ける「神社愛」を感じます・・
神様は人から敬われる事で、
御神威も高まるもの、
御祭神のパワーは確実に
アップされている事と思います。

「老松」
※一夜の松伝説
「道真公が太宰府へ向かう途中、
自身の無実が証明されることを願う
手植えした松が一夜にして成長し、
老いた木(老松)になったという
伝説が由来とされています。
よって道真公にゆかりのある人物
または道真公の忠臣を祀った際に
老松の名称が使われています。」
※老松大明神
「老松大明神は主に道真公の師である
島田忠臣や、
長年道真公に仕えた家臣の島田忠興、
道真公の両親の菅原是善と伴吉祥院を
神格化したものであるとされており、
道真公の正室であった
島田宣来子は老松女と呼ばれています。」
※神仏習合
(八百万の神(神道)だけでなく、
実在の人物が
神格化(仏教)することをいいます。
明治時代に神仏分離令が出されるまで、
およそ千年以上にわたり
日本の信仰の主流であり続けました。)
「元々は天満宮と合わせて勧請され、
地元の産土神として信仰を集めてきました。
九州北部に数多く存在し、
村の鎮守として親しまれています。」
確かに「老松」と名のつく神社は、
北部九州に多いようで、
福岡や日田市でも参拝したことを
思い出しました。

新発見!
拝殿軒下に掘られた梅の彫刻。

素晴らしい天井絵は、
M様から教えていただきました。
こんな素敵なものがあったとは、
驚きですね!

拝殿から本殿へ。

本殿に参拝。
御神木(クスノキ)
御社殿前には、
御神木と御神木候補の
2本がそびえています。

巨大な御神木のクスノキ(左)と
御神木候補のイチョウ(右)。

クスノキをアップ。

反対側からも撮影。

樹齢600年の案内。

幹の近くから見上げると
さらなる迫力を感じます。
御神木候補(イチョウ)
クスノキの存在感に圧倒されて、
目立たない感じではありますが、
イチョウもかなりの
御神木感を醸し出しています。

秋になれば、黄色一色になり、
参道を彩っているはずです。
黄色い落ち葉で「ハートマーク」を作れば、
映え写真撮れる事間違いなし!
な〜んて妄想だらけの僕でした(笑)
(続く)