宗麟原供養塔(宮崎県川南町)
「心のあり方」
慶長五年(1600)、
関ヶ原の戦い直後、
徳川家康の本陣前を通過して
多大な犠牲を払うも
撤退に成功し、家康はじめ、
東軍の将兵達の心胆を寒からしめた
島津義弘の、
いわゆる「島津の退き口」に遡る事22年、
天正6年(1578)、
島津氏は、豊後を支配する
大友氏との間で合戦を行い、
大勝利をおさめています。
ただし、
勝っただけでないのが、
島津氏の凄い所で、
戦いの後、
当主、島津義久は、敵味方別け隔てなく、
戦死者の供養を盛大に行い、
その供養塔が現代まで残っているのです。
この「心のあり方」こそ
家臣や民衆、そして敵の心をも掴み、
ひいては神仏さえも味方となり、
島津氏が関ヶ原の戦い後、
領土を削られることもなく、
その後の幕末の明治維新を成し遂げた
道筋が隠されていたのだと思います。
僕は神仏をやみくもに
信じるわけでもありませんが(笑)、
「見えない何かが味方してくれる」
という場面は過去の人生において
何度かはあった気がします・・・
そんな島津氏の
「心のあり方」が具現化した供養塔、
今回の旅では最も気になる場所でした。
国指定史跡宗麟原供養塔の案内。
内容を抜粋すると次のようになります。
「この供養塔は、
天正六年(1578)十一月に行われた
豊後の大友氏(宗麟)と
薩摩の島津氏(義久)との合戦
(通称高城之戦)の
戦没者を供養した塔である。
合戦の勝利後、島津義久は、
戦死者を敵味方の区別なく手厚く弔うよう
高城城主、山田新介有信に命じ、
さらに天正十二年、
合戦の七回忌に当たって
大施餓鬼(せがき)を行うよう命じた。
供養塔の完成は銘によると
天正十三年二月である。」
また、後ほど訪問した
高城川合戦古戦場の案内には、
「島津義久は、
戦死者の霊を供養するため、
鹿児島県福昌寺の僧を高城に派遣し、
高城河原において、豊後塚と名づけ、
三百人余りの僧侶を近郊より集め、
大施餓鬼を行いました。
これらの供養は敵味方別け隔てなく行われ、
島津氏の博愛的な精神が感じられます」
このように書かれています。
戦国時代、
戦いに明け暮れている最中に、
鹿児島から僧侶を呼んだり、
七回忌まで行うとは、
よくそんな心のゆとりがあったものだと
改めて感心しきりです。
両軍の配置も分かりやすく表示され、
実に親切な案内板です。
アナログで発見
マニアックな場所というのは、
意外とGoogle Mapは
あまり役に立ちません(汗)
宗麟原供養塔もその一つです。
道に迷った挙げ句、
超アナログでの「感」を頼りに、
「恐らくこちらだろう」
そう考えながらたどり着いたのが、
こちらの交差点です。
お~あった~!
「宗りん原供養塔入口」
この案内を見た時の感激、
今でも忘れません(笑)
これで間違いなし!
あとわずか。
駐車場とトイレが整備されています。
供養塔
ここからは徒歩。
供養塔は、すぐに見えてきました。
手水舎も完備。
水道も「現役」ですよ(笑)
昭和八年には
既に史跡指定されていたようです。
供養塔へ。
「博愛」書かれた石碑は、
島津氏が敵味方分け隔てなく、
供養した事の証でしょうか・・・
鐘を鳴らして参拝。
先程の案内の続きには、
「塔の形式は六地蔵塔で竿石には
干時 天正十三年 大施主
謹奉訓誦 大乗妙典一千部為戦亡各霊
二月彼岸日 源有信山田新介
本来無東西 何処有南北
(本来東西なし、何処にか南北有らんや)
迷故三界城 悟故十方空
(迷うが故に三界は城、悟るが故に十方空)
諸行無常 是生滅法
生滅々己 寂滅為楽 とある。」
このように書かれているので、
すべてを確認してみました。
正面。
「干時 天正十三年 大施主
謹奉訓誦 大乗妙典一千部為戦亡各霊
二月彼岸日 源有信山田新介」
消えかかっていますが、
大方は読めます。
向かって左側の六地蔵部分。
「本来無東西 何処有南北」
良く見えています(笑)
背面の六地蔵部分。
「諸行無常 是生滅法
生滅々己 寂滅為楽」
こちらも450年前の文字が
完璧に見えています。
正面向かって右側の六地蔵。
「迷故三界城 悟故十方空」
こちらも文字は、よく残っています。
供養塔参拝後、
のどかな景色を見ながら駐車場へ。
高城川合戦古戦場跡
宗麟原供養塔を参拝した後、
案内の最後に書かれていた
「数百メートル南方には、
大友方の陣地「松山之陣」がある」
こう書かれていたのと、
この陣地の跡に、
天正十五年(1587)
豊臣秀吉の弟、秀長が
同じ場所に高城城攻略のための
巨大な付城を作った時の
石垣が残っている事を知っていたので、
そこを目指したのですが、
やはりGoogle Mapはダメで、
アナログの感ではその山裾の
石垣を見るのみにとどまりました。
恐らく陣城の石垣跡でしょう。
ここが、松山之陣があった山。
(後、秀長の陣城)。
そして、この風景を撮影したのが、
こちらの広場です。
広場には案内があります。
「高城川合戦古戦場跡」
僕は、この時の戦いは、
「耳川の戦い」として
何度も文章に触れていたので、
何故現地である、高城城でも
宗麟原供養塔でも、
全く「耳川の戦い」という文字が
出てこないのか不思議で仕方なく、
?マークが頭の上にこびり付いていました。
しかし、
ここで、ようやくその疑問は
氷解することに!
その肝の部分を要約すると
次のようになります。
「(島津)の河川を利用した戦法に
(大友)は混乱に陥り、
竹鳩ケ淵(木城町と高鍋町の境)にて
足を取られ、溺れてしまいました。
その後、残された豊後勢は競って、
北に敗走し、大敗を喫するのでした。
島津軍はそれらの兵を追討し、
美々川(現在の日向市)までの間に
豊後軍の死骸で埋め尽くされました。」
これで分かりましたね(笑)
美々川=耳川。
ここよりかなり北、
日向市の川の名前でした。
「高城川合戦」としては
有名になっていないのは、
何故なんでしょうね(笑)