東行庵(下関市)高杉晋作の墓

 

ついで

今回の旅のテーマは、

野村望東尼のむらぼうとうにの足跡を辿る旅・山口編」。

望東尼さんの終の棲家である

防府市へ行く途中に立ち寄ったのが、

高杉晋作が眠る東行庵とうぎょうあんです。

そう、あの超有名な人物が、

「ついで」なんですね(汗)

それでも晋作さん最大の理解者、

望東尼さんから〜の墓参りで、

晋作さんもきっと喜んでおられるに

違いありません(笑)

参道

晋作餅の食べ比べで、

お腹も心も満たされた僕たちは、

ようやく駐車場から東行庵に向かいます。

入口。

境内案内図。

最初に目指すのは

もちろん高杉晋作の墓です。

この時期、

ライトアップもされていて、

夜間のみ有料になっています。

そして石橋を渡ると、

いくつかの石碑がありますので、

説明などを書き出してみます。

「高杉春風隊長墓前作 小原六六庵」

「奇兵隊長はの山にねむ

明治以来俗寰このかたぞっかんとお

当年を想い起こせば見るに堪えず

杜鵑花発とけんかひらく松柏の間」

「高杉晋作(幼名、暢夫・春風。号、東行)

先生の百回忌法要

(昭和四十一年、一九六六)に際し、

漢詩家・書家である小原六六庵先生

(愛媛県松山)が来関、

その折りに詠まれた詩である。

杜鵑花=サツキツツジの別称」

「無隣庵の歌碑」

「山縣狂介(有朋)は奇兵隊の軍監として

この地にかりの住まいをつくり

”となりなき世をかくれ家のうれしきは

月と虫とにあひやとりして”

と詠み「無隣庵」と名付けて

心のやすらぎの地とした。

字は山縣自身のものである。」

「白石正一郎(資風)歌碑」

「高杉晋作や奇兵隊を支援した

下関竹崎の勤王商人白石正一郎は、

多くの和歌を残した歌人でもあった。

その中から梅林にちなみ

白たへににほへる梅の花ゆえに

あけゆく空もみどりなるらん を選び

昭和四十八年六月に除幕された歌碑である。

筆をとったのは

郷土史家中原雅夫氏だった。」

ここは階段でなくスロープなので、

いわゆるバリアフリーですね。

「日露戦役凱旋記念碑」

明治三十九年十月の建立で、

山縣有朋書と刻まれています。

さらにスロープを上ります。

ここで立派な楓に遭遇。

ちゃんと晋作さんのお名前

(東行)も付いています(笑)

完璧な案内表示。

「国指定記念物(史跡)

高杉晋作墓

指定年月日 昭和九年五月一日」

「高杉晋作(号・東行)は

天保十年(1838)八月二十日、

長州藩士高杉小忠太(家禄二百石)の

長男として萩城下に生まれました。

藩校明倫館に学ぶ傍ら、

松下村塾で吉田松陰に師事して

志操を養いました。

文久二年(1862)には

幕府貿易視察団に加わり

清国上海に渡り、

ヨーロッパの半植民地と化した街を見て

大変な衝撃を受けました。

文久三年六月、

下関を外国艦から防護するために

奇兵隊を結成。

奇兵隊は武士以外でも「志」があれば

入隊を許した画期的な軍隊でした。

元治元年(1864)八月には、

四国連合艦隊の

下関砲撃事件の戦後処理にあたり、

また同年十二月には長府功山寺で挙兵し、

藩論を討幕路線に統一しました。

さらに、

下関開港・薩長盟約締結などを推進。

慶応二年(1866)には、

奇兵隊などを指揮し、

長州再征軍を小倉口に撃退しました。

慶応三年四月十四日、

下関で結核のため病没、

奇兵隊陣営近くの

吉田清水山に埋葬されました。

二十七年と八ヶ月の短い生涯でした。」

やはり、

上海に行って清国の惨状を見たことで、

西欧がいかに危険かを改めて知り、

その後の原動力になったのでしょう。

だからこそ

下関砲撃事件は完敗だったにも関わらず、

戦後交渉では強気で臨み、

日本の国益を第一に考え、

欧米の植民地化を避ける為、

「彦島租借」を頑なに承諾せず、

命懸けの交渉を乗り切れたのかも

知れません・・・

※彦島租借の件は交渉当時、

通訳をした伊藤博文が、

後年回想したものなので、

確実ではありませんが、

香港・マカオを租借した

欧米の狡猾なやり方からして、

恐らく要求はあったと思っています。

高杉晋作の墓

スロープが終わると

お墓はすぐそこです。

最後は石段。

お墓に到着。

エントランス。

「高杉晋作の墓」

「高杉晋作(号東行)は

天保十年(1839)二百石の

長州藩士の長男として萩に生まれた。

十八歳にして生涯の師

吉田松陰の松下村塾に

入門したのを転機に

希代の革命戦略家として頭角を現す。

文久三年(1863)長州藩が

外国艦隊と砲火を交えるに及んで

奇兵隊を組織自ら初代総督となる。

以降各地に討幕戦を指揮し

明治維新のさきがけとなったが、

慶応三年(1867)

四月十三日(命日は十四日)

下関において結核のため

その雷電風雨の如き

二十七歳八ヶ月の生涯を閉じた。

遺言によりここ奇兵隊本拠地吉田清水山に

土葬される。」

生まれ故郷の萩ではなく、

ここ吉田を選んだのは、

共に戦った多くの奇兵隊士とともに

眠りたかったのでしょう・・・

亡くなった奇兵隊士の慰霊の場、

櫻山招魂場(現在の櫻山神社)を作るなど

隊士を思っていた晋作さんならば、

これは必然だった気がします・・・

「寄進の灯篭」

「大江孝允 後の木戸孝允

源 馨 後の井上馨

越智博文 後の伊藤博文」

確かに灯篭の柱には、

「大江孝允」 「源 馨」

「越智博文」のお三方の名が

刻まれていますね!

この先は進入禁止のようです・・

参拝。

墓碑銘は「東行墓」。

後から陶像横の案内で知ったのですが、

晋作さんは功山寺決起の前、

死を覚悟して自分の墓碑銘を

以下の如く書き残していたのです。

「死しても恐れながら天満宮の如く相成り、

赤間関の鎮守と相成り候志に御座候。(略)

別紙詞作御覧頼み奉り候。

表 故奇兵隊開闢総督高杉晋作則

○○西海一狂生東行墓

○○遊撃将軍谷梅之助也

裏 毛利家恩古臣高杉某嫡子也」

これが採用されなかったのは、

その後の大活躍があったから

功山寺決起までだと晋作さんの功績を

語り尽くせないからだったかも

知れません。

それとも、刻むスペースが

なかったからかな?(笑)

真新しい生花と榊。

真後ろに回って撮影。

ほぼ西に向いていますので、

お世話になった野村望東尼の出身地、

福岡を向いているとも言えますが、

こじ付け過ぎでしょうか?(笑)

福田公明の墓

高杉晋作と同じ墓域に

もう一つのお墓があります。

向こう側が高杉晋作、

手前が福田公明の墓です。

こちらも綺麗に手入れされています。

「福田公明の墓」

「諱は公明、通称侠平、悠々と号す。

山口後河原の人、

十川権右衛門の次子として生まれた。

長じて福田貞八の養子となり

奇兵隊参謀・軍艦となって

奇兵隊の育成に努めたが

明治元年(1868)戊辰戦争で

北越方面に戦った後、

病を得て同年十一月十四日

下関にて四十才をもって歿した。

遺言により高杉晋作の墓側に葬られた。」

福田公明さん、

あの世でも一緒にいたいと思いほど、

高杉晋作に心酔していたという事でしょう。

まるで、

戸次道雪べっきどうせつ(立花宗茂の義父)を慕い、

立花山城麓の梅岳寺にある

道雪の墓の横で眠る家臣、

薦野増時みたいな人ですね!

参拝。

梅處尼の墓

野村望東尼と共に、

高杉晋作の最後を看取ったと言われる

晋作の側室(妾)、梅處尼の墓が、

晋作さんの墓の一段下にあります。

梅處尼(ばいしょに)の墓。

奥には晋作さんの墓石も見えていて、

ここでも二人の強い絆を感じます・・・

「高杉晋作の側室おうのは

晋作が維新回天の事業に

東奔西走する際もよき伴侶となり

ある時は幕府の追跡の白刃をも

共にくぐったこともあったが

晋作没後は、出家して梅處尼と名乗り

東行庵初代庵主となった。

明治四十二年八月七日六十七歳を以て

他界するまで晋作の菩提を弔った。」

晋作さんの正妻がどんな人かは知りませんが、

梅處尼さんとは「同志」の関係でも

あったのでしょう・・・

参拝。

(続く)

 

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