吉浦神社(佐賀県嬉野市)後編

 

破壊と再生

「人は万物の霊長である」。

この言葉に、子供の頃は、

へ~そうなんだ~

人って偉いんだな~

動物と違って、

言葉も喋れるし、物も作れるし!

としか思っていませんでした。

しかし、人生経験を重ね、

人類の歴史を知れば知るほど、

この言葉が、

人類の自惚れに思えてきました。

日本の明治維新に於いても

戊辰戦争はじめ

幾つもの戦いで、多くの人は殺され

また傷つき、町は焼かれ、

神仏分離、廃仏毀釈でも、

歴史的価値の高い、

お寺の建物はじめ古い文化財の多くは

戦国時代さながらに破壊され、

灰燼に帰しています・・・。

勿論、大きな変革を

成し遂げる為の過程としては、

必要だったのかも知れませんが、

人間なんて、それくらいの生き物だと

達観出来てしまう事例の一つです。

吉浦神社の拝殿前では、

破壊と再生で成り立つ人類というものを

改めて想起させてくれる

貴重な狛犬と出会う事が出来ました。

ここに呼んでくれた御祭神様、

ホントにありがとう!(笑)

拝殿回り

長い参道を大いに楽しみ、

ようやく拝殿へ。

拝殿。

古いもの(木造建築)と

新しいもの(アルミサッシ)が共存する

素晴らしい拝殿ですね!

 

参拝。

唐破風の向拝には、

繊細な彫刻が施されています。

拝殿前の狛犬

拝殿の左右には、

石造狛犬が鎮座しています。

狛犬の台座には、

「慶應四戊辰歳三月」の文字。

西暦1868年の奉納で、

冒頭に書いた

戊辰戦争の年の奉納ですが、

実はこの後、ちょっと悲しい出来事を

僕達は知る事になります・・・。

吽形。

こちらにも慶應四戊辰とあります。

ところが・・・

吽形の裏側に回って上の台座を見ると、

「大東亜戦争に應集受けし後を再建す」

このように刻まれていて、

阿形の方の台座には

「昭和三十六年四月吉日建之」と

刻まれています。

ということは・・・

江戸時代末期に奉納された狛犬は、

恐らく青銅製の狛犬だったのでしょう。

金属供出された時の

崇敬者のお気持ちを思うと

胸が詰まります・・・

そして、

江戸時代に心を込めて

寄進した方々のお名前とともに

今こうして、石造狛犬として復活し

鎮座している姿を見ると、

破壊されても何度でも

立ち上がる人々の強さ、

さらに、

100年の時を超えた

吉浦神社さんへの崇敬の念を

感じずにはいられません・・・。

拝殿前の手水鉢

妻が、

「ここになんか凄い手水鉢があるよ!」

そう言ったので、

拝殿の左右に手水鉢へ近づいてみました。

拝殿向かって右側の手水鉢。

裏側を確認すると

「慶應四年戊辰三月」

「二百年御祭獻主」と書かれ、

ここにも「○○兵衛」「○○衛門」と

寄進者の名前が連なっています。

慶應四年戊辰三月は、

先程の狛犬と同じですね!

だとすると青銅製(多分)狛犬も

二百年御祭の為のものだったのでしょう。

妻が指したのはこの彫刻です。

村人たちが並んで

吉浦神社に参拝する図柄ですね。

神社の愛され方が素晴らしい!

左サイドにも同じように彫刻がされ、

石造眼鏡橋も描かれています。

右サイドは山里と風景。

次に、拝殿向かって左の手水鉢へ。

屋根も付けられて、

大切にされている感満載なのが、

また泣かせてくれます。

こちらは龍の彫刻。

左サイド。

左の女性は、

神功皇后かも知れません。

右サイド。

見事な龍の尻尾が彫られています。

三面をつなぎ合わせると、

神功皇后が三韓征伐に行く前、

住吉神のお告げで龍神様から

満珠、干珠(まんじゅ、かんじゅ)を

受け取った場面でしょうか。

(あくまでも推測ですが)

拝殿から左に回り本殿へ。

なんと立派な!

上品な赤色と黒のコントラストで、

高級感あふれていますね。

本殿と拝殿。

本殿左横。

三花蕪懸魚(みつばなかぶらげぎょ)の

根本には、宝袋のようなものがありますが、

こんなの初めて見ました!

本殿の蟇股と狛犬。

上品&剽軽ですね(笑)

拝殿前でツーショットを完了。

境内社など

次に、専用の参道が設えられた文彦社へ。

「文彦社専用石段」(多分)

本殿に参拝する際、

四の鳥居を右に行くと、

本参道とは別に

随身門へ直接行ける、

立派な石段があったのですが、

後から考えれば、これが

「文彦社専用の参道」だったようです。

石段を登りきり右手に行くと

手水舎と文彦社の鳥居が現れます。

神額には「文彦社」の文字。

さらに石段で上へ。

文彦社。

案内を超訳すると

「鍋島蓮池四代藩主、

鍋島直恒公を祭る。

元文五年(1740)五月、

公自らの生祠をこの地、

吉浦祠(神社)の側に建立し、

文彦霊神と号し

生誕の十二月五日をもって

祭日となす。」

このようになります。

生祠とは生きているうちに

神として祀ること。

3年近く前、福山市の鞆の浦

平賀源内の生祠を見て以来、

久しぶりの生祠でした。

境内社。

神様は不明です。

安全大明神。

屋根付きの石碑。

「延享丙寅」の文字があるので、

西暦1746年の建立で、

古いものですが、

漢文の内容はわかりません・・。

石祠。

帰りがけに見つけた石祠群。

ここまでで、

見どころが大過ぎる吉浦神社の参拝は

遂に(笑)完了です。

 

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