出羽三山神社(羽黒山)天地金神社

 

「宝物」

現地での交流を求めて

旅をしているわけではありませんが、

出会いにはホント恵まれていると感じます。

今回もまた一生の記憶に残る方との

出会いがありました。

それは、

門前之宮 天地金神社てんちこんじんじゃを参拝後、

豆腐地蔵尊の前での出来事です。

雨が降りしきる中、

僕たちよりもかなり先輩らしき女性が、

「写真撮りますよ!」

そう言って声をかけて来てくれたのです。

女性は、足が不自由らしく、

かなり辛そうに歩いているのに、

「下の随神門の前で撮りましょう」

そう言われたのです。

女性の足の不自由さを思い、

石段を降りて随神門まで行くのには

一瞬ためらいましたが、

「好意は素直に受ける」という

僕らの信条に従いお願いする事に。

女性が足を引き摺りながら、

石段を降りて随神門まで行き、

撮って貰ったのがこんな写真です。

女性の指先が写り込んでいて、

僕たちはブレている写真ですが、

これが僕たちには、

「宝物」になっています。

ここまで親切にしてくださった方の指先、

何だか神々しく見え、

思わず拝んでしまいますよ!

そしてもう一枚。

大雨の中で、

こんなに満たされた気持ちになれるなんて、

ただただ女性には感謝しかありません!

旅の思い出、

プライスレスですね!

門前之宮 天地金神社

随神門界隈を散策後は、

門に向かって右横に鎮座する

「門前之宮 天地金神社」へ。

随神門の右前には案内が建ち、

迷うことはありません。

石段の参道。

神仏習合時代を偲ぶ石碑群。

ここでの注目がこちらです。

「元三大師堂開基宥然」

神社のサイトと

案内をミックスさせると

「応永4年(1397)、

元三大師堂として創建され、

のちに戦火で荒廃するも

江戸時代の安永8年(1779)

羽黒山智憲院宥然が、

比叡山横川の元三大師堂から貰い受けた

画像を祭るため再興された。

この画像は、後水尾天皇が

お書きになったものと伝え、

幅1.8m、長さ3mを超える

大幅なものである。

明治の神仏分離を経て、

昭和39年、須佐之男命をお祀りし、

天地金神社となった。」

このようになります。

元三大師さんとのご縁が

ここで結ばれるとは、

実に有り難く、嬉しいものですね!

こちらは自宅の鬼門を

守ってくださっている

観音正寺で授与して貰った

元三大師さん(角大師)です。

その威力は絶大で、

この一年、驚く事ばかりでした。

(具体例は割愛します・・笑)

宝形造&火灯窓という、

お寺時代の元三大師堂を

そのまま流用した本殿です。

参拝。

両柱には昇り龍と降り龍の

彫刻もあります。

昇り?降り?

降り?昇り?

う〜どっちがどっちだったか(汗)

豆腐地蔵尊

次に豆腐地蔵尊へ。

エントランス。

参拝。

案内を要約すると以下になります。

「お地蔵様は、慶安二年(1649)

第五十代天宥別棟が、

お山の繁昌と道中安全のお守りとして

二ノ坂上御本坊の前に建立した。

明治六年(1873)、廃仏毀釈で

お堂は壊されお地蔵様も藪に倒された。

与造という石工が、お地蔵様を見て、

「豆腐石にちょうど良い」と鑿(のみ)で

顔を一撃するやいきなり卒倒し、

三日三晩意識が戻らずにいると、

お地蔵様が夢枕に立ち「悔い改めよ」と

告げられた。

与造は孫子三代にわたり

豆腐を捧げると誓うと、

四日目に意識が戻った。

これを聞いた碓氷甚内は

五十両の私財を投じ、

人夫五百人を使って

ここに運び下し祀った。」

優しいお顔に癒されますね〜

この後、ここで、

冒頭に書いた女性から声をかけられ、

随神門の前で二人の写真を

撮ってもらう事になるのですが、

もしかしたら、

あの親切な女性は、

豆腐地蔵尊の化身だったかも知れません・・

(続く)

 

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