高嶺城(山口市)前編
敵の繁栄の為の城
戦国時代は、
城を造る→敵に城を取られ失う
江戸時代は、
城を造る→改易・転封され城を失う
こんな形で、
「せっかく造ったのに取られてしまう」
というお城が多々あり、
今回訪問した
高嶺(こうのみね)城もその一つです。
大内氏の家臣、
陶晴賢(すえはるたか)は、
大寧寺の変において、
大内義隆父子を殺害し、
実質的に大内家は滅亡し、
その後、
大友宗麟の弟を大内義長として迎え、
大内家の実質的な
支配者となっていました。
その陶晴賢が厳島の戦いで、
毛利元就に大敗、自害した後、
傀儡であった大内義長は、
高嶺城を造った直後、
毛利氏との戦いに臨みましたが、
高嶺城を放棄しています。
この後、毛利氏が城主となったので、
実質、義長さんは敵の繁栄の為に
大内氏の財力・労力を使って
城を築いたということになります。
毛利さん、城が出来上がるのを
待っていたのかも?(笑)
高嶺城へ
高嶺城へは、
途中、木戸神社の前を通り、
山上近くまで車で行くことができます。
木戸神社から見た高嶺城。
この後、道幅は狭くなり、
対向車が来たら、
冷や汗ものの道が続きます。
こんな道ですが、
過去に香川県の
高屋神社で経験した
「極狭・視界無し・対向車多し」
に比べると、
恵まれた道かも知れません(笑)
NHKのテレビ塔下に
車を置き、散策へ。
テレビ塔横の曲輪の案内。
「国指定史跡
大内氏遺跡附凌雲寺跡
高嶺城跡(こうのみねしろあと)
高嶺城は、大内氏最後の当主
大内義長が毛利氏の侵攻に備えて
弘治二年(1556)に築いた城です。
翌年、義長は形勢が不利となり
長門国(下関方面)に逃れましたが、
四月、長府の長福寺
(現在の功山寺)で自刃しました。
義長が去った後、毛利氏は城の改修をし、
市川経好を城番として置きました。
永禄十二年(1569)に
大内輝弘が山口に攻め入った際に、
毛利勢はこの城の守りを固めて
寄せ付けなかったといわれています。
元和元年(1615)
一国一城令が出されたため、
毛利氏は萩指月城を残し、
山口高嶺城、長府櫛崎城、
岩国横山城を破却することとしました。
寛永十五年(1638)
高嶺城は廃城となりました。
高嶺城跡のある鴻ノ峰は
標高338mの丘陵です。
城跡は、頂上の主郭を中心に、
四方に伸びる尾根に
曲輪群が広がっています。
主郭やその周囲の曲輪には
石垣が巡らされ、
礎石や、瓦片が発見されています。
なお、史跡大内氏遺跡は、
四遺跡で構成されています。」
冒頭で書いたことも含め、
かなり詳しく案内されていて、
大変有り難し!
地形図(縄張図)。
このお陰で、城の攻略は簡単です。
曲輪には
景色を眺める為でしょうか、
ベンチが置いてあります。
ベンチ前からの眺望。
戦国時代ならば、
木々が無かったはず。
絶好の見張り場所ですね!
下の曲輪へ。
段になった曲輪を妻も散策。
テレビ塔に戻り、
ここかは徒歩で主郭へ。
あと500mの表示があると
心が弾みますね(笑)
崖っぽい道の連続。
山城なんで当たり前か・・・
思った以上に整備された道に感謝。
小さな曲輪に到着。
東屋があるので、
行ってみました。
東屋前の景色。
ここも木々がなければ、
山口の街が一望できますね!
次はかなり大きな曲輪へ。
案内。
「広大な郭(くるわ)
高嶺城には大小さまざまな郭があり、
この広い空間も郭の一つです。
通常は城の中に
広いところを設けないよう
堀切で区切って狭くします。
これは広い空間には
敵の軍勢も集合しやすく、
軍事的に不利になるからです。
では、高嶺城に
広い空間があるのは何故でしょうか。
それは軍事よりも居住を
意識していたからと考えられます。
山の上を居住区とし、
山の下で防御することを
意図していたのでしょう。
なお、この郭には石垣がなく
すべて切岸です。
これは大内氏の段階にさかのぼる
古い造り方に見えます。
しかし、瓦が落ちていることから
毛利氏が城番を置いていた段階にも
使用されたことが分かります。
高嶺城は大内氏が築き、
その後毛利氏が手を加えて
使用し続けますが、
手が加えられたのは一部であり、
当初の状況がよく残っています。」
このように書かれています。
古城図。
それぞれの曲輪に
縦横の長さが表示されているのが、
ちょっと面白いですね。
平坦な部分が続くと
体が喜びます(笑)
まだまだ続く平坦路。
思ったより早く
主郭が見えてきました。
主郭まで20m、
石垣まで60m、
もうすぐそこだ~!(笑)
(後編に続く)