「紫電改」公開/出水市(前編)
「走り出す」
今年(令和8年)4月8日、
81年ぶりに海中から引き揚げられた
三四三海軍航空隊(剣部隊)所属の
林喜重大尉が乗っていた紫電改。
この引き揚げプロジェクトは、
個人の方々の「強い思い」から始まり
クラウドファンディングも利用し、
短期間のうちに実行に移されています。
もし国や県など行政に任せていたら
どうだったでしょう・・・
煩雑な調査や手続きという観点からして、
恐らく今の時点での引き揚げは
難しかったと思います。
心願成就というように、
神様も強くて清い思いには、
味方してくれるものです。
これからは機体を修復したり、
展示場を作ったりと
未来のハードルは、
いくつもあるようですが、
例え着地点は見えなくても
「走り出す」ことこそ、
共感を得て味方が増え、
最終的に夢を形にする
最良の策だと思います。
祖国のために散華された林大尉も
きっと一緒に走ってくれているはず、
僕たちも未来を信じて、
微力ながら関わり続けていきます。
塩抜きプールへ
紫電改の公開は、
毎週土曜日、13時〜16時なので、
僕たちは13時の公開時間に合わせて
塩抜きプールが作られている
会社の敷地を目指します。

出水市内を少し南下し、
九州新幹線の手前の
福本商事の看板を右へ。

親切にも紫電改の案内付きです。

ここをさらに右に折れます。

駐車場の案内もあり難し!

お城好きの僕からすると、
思わず「切岸」と言ってしまいそうな
シラス大地の高い壁の手前が、
紫電改の塩抜きプール設置場所です。
林喜重海軍大尉の略歴
テントが見えたので、
まずはそちらで寄付をする事に。

13時過ぎたばかりですが、
既に何人もの人が来ていますね!

日本海軍第二種軍装を纏った
白い軍服姿の林大尉、
その凛々しさゆえに
心が締め付けられます・・

4月8日の紫電改引き揚げ風景。
案内をしてくださった男性は、
「思った以上に砂が入っていて、
作業は相当難航しました。
引き潮で機体が砂に乗ってしまい、
動きが取れなくなった時、
偶然のように大きな波が来て、
紫電改は掬い上げられ、
それがあったから何とか、
引き揚げが出来ましたが、
あの大波は林大尉が
起こしてくれたのじゃないか
とも思っています。」
このように話されていました。
さらに、
「不思議な話はまだあって、
ここに機体を持って来て、
作業後泊まり込みしていたら
部屋をノックされたのですが、
そこには誰もいなかったのです・・
林大尉が来てくれたのかと
思っています・・」
このように語られていました。
これは恐らく
林大尉がお喜びになって、
「ありがとう!僕の紫電改を
引き上げてくれて!」
こんな思いを伝えに来られたに
違いないでしょう。

昭和20年4月21日、
出水上空戦闘の経緯と、
引き上げられた機体の写真。
20ミリ機関砲の弾丸が
沢山残っていたようですが、
自衛隊が爆破処理するそうで、
規則とはいえ残せないのは、
実に勿体無いものです・・

「林喜重海軍大尉
(戦死により少佐)の略歴」
■1920(大正9)年
7月17日:
神奈川県鎌倉町浄明寺に生まれる
■1938(昭和13)年
3月:神奈川県立湘南中学校卒、
4月:海軍兵学校入校(第69期)
■1941(昭和16)年
3月:海軍兵学校卒業、
少尉候補生として「那智」、「摩耶」に乗組
■1942(昭和17)年
8月:大分空にて戦闘機専修
■1943(昭和18)年
1月:中尉任官、
2月:戦闘機課程終了
■1943(昭和18)年
5月:251空
(ラバウル)ブイン基地へ進出、
10月:253空(同)トベラ基地へ
■1944(昭和19)年
3月15日:大尉任官、
361空S407飛行隊長
兼分隊長就任(鹿児島基地)
■1944(昭和19)年
7月:221空へ。
10〜11月:
台湾沖航空戦〜フィリピン航空作戦に従事
12月上旬:
死戦を生き延びた列機と帰国後、
S407は林大尉以下、出水基地に終結、
「紫電」による紫電改の操縦を開始、
343空に転属。
昭和20年元旦を出水で迎える
■1945(昭和20)年
1月26日:S407は松山へ移動、
343空が本格始動、
4月:鹿屋、国分へ進出
■1945(昭和20)年
4月21日:
出水上空でB29編隊と交戦、被弾のため
脇本海岸に不時着を試みるも
海面に激突し、死亡(24歳)
戦闘記録
ここには当時の戦闘詳細記録が
展示されています。

こちらは現代版。

当時の記録です!
航空日誌とでもいうのでしょうか、
ここには紫電二一型と記され、
林喜重大尉の他、鴛渕孝大尉、
菅野直大尉の名前もありますね!
これ見ただけで、
昭和20年4月21日に
タイムスリップ出来ますよ(笑)
こんなものまで準備して、
塩抜き見学者を迎えてくださるとは、
感動しかありません!

行動図第三。

行動図第六。
ここには林大尉機であろう
出水から阿久根の海岸への
航跡もあります・・

「B30」は林さんの事ですね・・
自爆と記されています・・・

現代文を交え一部を書き出します。
「〇七〇〇(午前7時)
福山上空高度6000mにて
北西進する「B29」11機発見
これを攻撃せるも効果不明。
小隊長機(林大尉機)は一撃後
分離、更に敵を追撃、
出水上空にて敵「B29」19機と交戦、
反復攻撃を加え三中隊の一機と共同
「B29」一機を撃墜せるも被弾の為自爆
〇七四〇(午前7時40分)」
林大尉が散華されたのは、
昭和20年4月21日午前7時40分、
僕たちが初めて紫電改の眠る
折口浜の慰霊碑にお参りしたのも、
早朝でしたので、
何時だったかを確認すると・・・
なんと林大尉が散華された時間と
ピッタリ同じ午前7時40分ですよ!
本当にびっくりというか、
これは単なる偶然とは思えません。
もちろんこの時、
航空日誌の存在など
全く知りませんでしたし、
やはり妻の引き寄せというのか、
林大尉との意思疎通というのか?
きっと僕たちはその時間に
呼ばれていたのでしょう・・・
防弾燃料タンク
塩抜きプールは全部で3つあります。

テントの陰に隠れ気味なのが、
防弾燃料タンク、
真ん中の階段が見えるのが、
エンジンと操縦桿など、
右側の大きいプールが両翼で、
まずはテント近くの
防弾燃料タンクの見学からスタートです。

零戦では無防備だった燃料タンクも
紫電改では手厚く防御されています。

タンクのアップ。

こちらは燃料タンクの
防弾用ゴムの一部を
切り取ったものです。

厚みはこんなにあり、
真ん中にも防弾板?が入っていて、
二重構造になっています。
本物の紫電改の一部を手に出来るなんて、
貴重すぎる体験ですよ!
僕も妻もこれで、
テンション爆上げでした(笑)
誉エンジンと操縦桿
次に真ん中のプールへ。

ここは前面と側面の
2箇所から見学可能です。

前面から。
中島飛行機製の誉エンジン、
しっかり残っていますね!

お〜操縦桿ですよ!
林大尉は最後まで、
これを握り締めていたのでしょう・・・

横からの階段は「紫」。
紫電改の紫に興奮する妻(笑)

こちらからも誉エンジンと操縦桿、
コックピットの一部を見学。

誉エンジンをアップ。
陸軍では四式戦闘機疾風に採用され、
戦争末期を飾った大出力エンジン、
技術的な事やガソリンの粗悪さなど
問題は多くあったそうですが、
とにかく紫電改は飛んで、
米軍機と対等に戦えたのは事実ですから
当時の整備士たちの努力は、
想像を絶するものだったでしょう。
(続く)
