立花家と薦野増時・米多比鎮久(展示)

 

アナログの威力

僕たちが住んでる

福岡市東部に位置する

古賀市周辺には、

国史跡の船原古墳や、

鎌倉時代から戦国時代にまつわる

お寺、お城が溢れていて、

古賀市の歴史資料館では、

年間、かなりの頻度で、

地元の歴史を紹介する

展示を行っています。

その主要なもののポスターは、

JR古賀駅に掲示され、

今回の展示、

「立花家と薦野増時・米多比鎮久」も

やはり古賀駅で知りました・・・

今や何でもネット全盛の時代ですが、

アナログの威力、

還暦過ぎのおやじには効果絶大、

アナログは永遠なり!かな?(笑)

会場へ

最近車を手放したので、

自宅からは徒歩で展示会場へ。

リーパスプラザ古賀。

会場は二階の歴史資料館です。

お~このポスター、

古賀駅のと同じだ~(笑)

受付で記入と消毒完了。

パンフレットは2種。

左は令和3年9月

福岡県発行のもので、

右が、古賀市が作ったパンフです。

このパンフ、紙質も厚く、

立派なもので驚きました!

表側。

中側。

永久保存版とでも言えそうです(笑)

そして、パネル展示会場へ。

プロローグ

パネルは全部で18枚。

一枚一枚は充実した内容で、

予想以上の楽しさでした。

「開催にあたって」

大友宗麟の配下、

戸次道雪、立花宗茂と、

現在も古賀市の地名となっている、

薦野(こもの)と米多比(めたび)。

この地名を名字とする、

薦野増時、米多比(ねたみ)鎮久を

フューチャーしています。

立花山城と古賀」

「立花山城は、

大内氏大友氏

そして、毛利氏との間で、

獲ったり獲られたりして、

最終的に大友宗麟の家臣、

戸次道雪が城代となります。

地元の武将、

薦野増時、米多比鎮久らとの

親密な関係を築き、

立花宗茂へとバトンは繋がれ、

その後宗茂は、

秀吉から柳川に領地を与えられ、

小早川隆景が名島城に入り、

立花山城には城代が置かれ、

関ヶ原の戦い後、黒田氏が入り廃城。」

年表を要約すると

こんな感じですかね(笑)

「立花氏と薦野・米多比氏のつながり」

姻戚関係を結ぶのは、

戦国時代で生き残る一つの知恵。

各々の、関係性がよく分かりますね。

「道雪立花山城時代の状況」

西には龍造寺隆信もいて、

周囲は敵だらけ・・・

これを見ただけで、

よくぞ大友の牙城を守りきったものだと

感心します・・・。

戸次道雪(べっきどうせつ)

明治から現代に繋がる、

柳川藩、立花家の初代とも言える、

戸次道雪。

この人なくして、

立花宗茂はなかったでしょう・・・

この人の凄いところは、

主君がどんなに劣勢になっても

決して裏切らず、状況を打開し、

主家を守り、生き延びたことです。

弱肉強食の戦国時代にあって、

この高潔なる生き様は、

娘婿の立花宗茂の生き方に

大きく影響を与えたと

パネルにも書かれています。

色姫(伊呂姫)

この方の名前は初めて知りました。

大友氏と宗像氏の和睦の証として、

立花山城へ入り

松尾岳で暮らした色姫は、

その後の両氏の関係悪化もあり

苦悩のうちに亡くなったと書かれ、

また、宗像氏の相続時の混乱で

斬殺された菊姫を弔う、

宗像市の山田地蔵尊についても

案内されています。

立花誾千代(ぎんちよ)

戸次道雪の娘、誾千代について。

7歳で立花山城主となった後、

大友家家臣、高橋紹運の嫡男、

統虎(むねとら)(後の宗茂)と結婚。

宗茂が柳川に行くが、

誾千代は柳川に入っても別居。

実際に仲が悪かったのか

どうかは知るよしもありません。

立花宗茂

僕にとっては有名な人。

半年ほど前、柳川市にある

立花宗茂(立花家)の菩提寺、

福厳寺を訪問したのは

記憶に新しいところですが、

恐らく、妻の記憶には

無いでしょう(笑)

立花宗茂のパネルは3枚。

ここでは最初の一枚のみ

画像アップしています。

超訳すると

「戸次道雪の娘、

誾千代と結婚し養子となり、

豊臣秀吉から独立大名として

柳川に封じられるも

関ケ原の戦いでは、

豊臣に忠義を尽くすため、

西軍につき、改易。

裸一貫から再起し、

関ケ原から20年後、

再度、柳川藩主として復活。

最晩年は島原・天草一揆

(島原の乱)にも従軍。

義父、戸次道雪からは薦野増時を

重用するよう言い残されるも、

小野鎮幸を重用。」

このようになります。

薦野増時

次のパネルは、

戸次道雪の与力として、

多方面で活躍した薦野増時。

パネルを超訳すると

「現在の古賀市薦野を

本貫とする薦野氏。

薦野の臼ヶ岳に城(薦野城)を築き、

道雪が立花山城に入城後、

その配下として各地を転戦。

道雪の死後、宗茂に仕える。」

「宗茂が柳川に移ると

城島城を任せられるも、

蒲池城の小野鎮幸より封禄は下となる。

関ヶ原の戦いでは、薦野増時は、徳川、

小野鎮幸は豊臣の恩義に報いる為、

西軍につくよう進言、(結果は西軍につく)

宗茂改易後、増時は

黒田家からの誘いに応じ、筑前へ移る。

元和九年(1623)81歳で死去。

彼は養徳山に葬られ、

遺骨の一部はのちに生前の約束に従い、

梅岳寺(新宮町)に眠る

道雪の傍らに葬られています。」

このようになります。

僕たちは薦野増時の

養徳山梅岳寺のお墓、

二ヶ所を訪問済ですが、

特に梅岳寺の墓を見た時、

増時の道雪への「愛」を

ひしひしと感じたのを思い出します。

米多比鎮久(ねたみしげひさ)

僕はよく知らなかった人。

「米多比」=「ねたみ」と読みます。

現在の古賀市米多比という町名は

「めたび」と読みますが、

「ねたみ」は妬みに通じるから

いつの時か読み方を

変えたのかも知れません。

パネルを超訳すると

「道雪の立花山城入城後は、

薦野増時とともに与力となり、

多くの合戦で活躍。」

「誾千代の(義)姉を娶る。

関ヶ原で立花宗茂改易後、

加藤清正に三千石で仕え、

その子、忠広の時代、

お家騒動「牛方馬方騒動」が起こり、

鎮久も証人として江戸に上り、

身柄はそのまま

奥州南郷の宗茂に預けられます。

宗茂の再封後、柳川に戻り

長男の鎮信は家老となり、

現在は三男の家系が続く。

鎮久は寛永十年(1633)

83歳で柳川で死去。」

小野鎮幸(おのしげゆき)

立花宗茂から信頼されていた

小野鎮幸について。

「豊後大野郡野津の出身。

宗茂が柳川に入ってから

家中一の封禄、五千石を貰うなど、

信頼は篤かった。

宗茂改易後も主君に送金し、

生活を支えた。

その後、宗茂の柳川再封を見ることなく

慶長十四年(1609)死去。」

由布惟信(ゆふこれのぶ)

この方、全く知らない名前です(汗)

超訳すると、

「戸次道雪の家老。

道雪、宗茂の二代に仕え

戦場に赴くこと65回、

疵を蒙ることも65カ所、

感状も数十通賜っています。

関ヶ原の合戦後の宗茂の牢人時代は、

老躯ながら付き従って仕え、

宗茂の生活を支えました。

慶長十七年(1612)

奥州南郷にて没する(86歳)。

子孫は柳川に戻り

立花家の家老などとして続く」

このようになります。

妻も全部読んでいたので、

知識も増えたかな?

これにてパネル展の観覧は完了です。

 

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