巌倉寺・堀尾吉晴の墓(安来市)
足跡を辿る旅
旅していると、
はからずも特定人物の足跡を
辿っていることがあります。
松江城を築城した堀尾吉晴も
そんな中の一人となっていて、
時系列はバラバラですが、
黒井城主時代に秀吉の命で再建した
清水宗治の検死役を勤めたという
水攻めで有名な備中高松城、
小田原攻征伐時の
そして、
この度の巌倉寺(いわくらじ)、
月山富田城(がっさんとだじょう)と
文字通り辿りまくっています。
あとは、
黒井城と浜松城を訪問すれば、
堀尾吉晴さんの足跡は
コンプリート?かな(笑)
月山富田城へ
松江駅前の日産レンタカーで、
この二日間の相棒(車)と合流、
安来市の月山富田城へ。
松江から約40分、
月山富田城駐車場に到着。
少し歩いていくと
こんなものを発見。
月山富田城のジオラマですよ!
野外に設置されたものは、
ちょっと珍しいかもですね。
正式名称は、
「月山富田城跡全体地形模型」。
おかげで、攻城は超楽ちん(笑)
しかし・・・、
この気の緩みで、
思わぬ落とし穴に落ちたのは、
後ほどのお話(汗)
巌倉寺へ
事前に確認していたつもりでも
確認していないのが僕の癖、
堀尾吉晴のお墓がある巌倉寺も
場所をよく把握していませんでした。
ところが妻から、
「この近くにあるよ」と教えてもらい
改めて地図を見ると、
その通りではないですか。
指南役のおかげで、
まずは巌倉寺へ。
登城道側からの境内入り口。
こちらが反対側の正面入り口。
巌倉寺の境内案内。
お寺ですが、
各段に曲輪が配置された
お城のような構造になっています。
石段を登り仁王門へ。
仁王門。
阿形の仁王像。
吽形。
仁王門の先、太子堂に参拝。
まるでお城の石垣ですね!
右側の宝篋印塔が気になります。
本堂へ。
鐘楼。
本堂が見えてきました。
文政十二年(1829)寄進の仏塔。
本堂にて参拝。
本堂裏手の観音寺に参拝後、
さらに奥へと進みます。
石段。
稲荷社に参拝。
琴比羅神社に参拝。
堀尾吉晴の次女、小那姫の墓。
案内板には、
「廿原堤(はたちばらつつみ)神社
の御祭神」と書かれていましたので、
神社検索というサイトで調べてみると、
「松江城築城の名君として
功績の高い堀尾吉晴の次女「小那姫」は、
におうばかりの美しい姫であったが
妙齢のころから「こしけ」の病になやんだ、
色々手をつくしたがいっこうにききめはなく
ついに20才になった。
ある夜「生あらば芽を出せ、
さらばこれに祈る者全て
婦人病の苦しみから免がれるべし」と、
言いおき椿の木をさかさに挿し
近くの堤に入水して果てたのである。
堤のそばに姫が挿した椿は、
不思議にも成長し、
後にこの姫を祭神として
神社が建てられた」
このように書かれています。
廿原堤神社、
地図で調べると、
この近くに鎮座していますので、
次回(あるか否かはわからないが)
参拝してみたいと思います。
さらに石段で上へ。
ここにも曲輪が(笑)
行者堂にて参拝。
皆様のお顔が超個性的です。
堀尾吉晴の墓
案内はあるものの、
何処にあるのか分からず
なかなか探し出せなかった
堀尾吉晴の墓ですが、
ここも妻の指南で、
無事辿りつく事が出来ました(笑)
石段の上がお墓です。
見えてきました。
案内。
「(前略)
この五輪塔は来待石製で、
高さはおよそ3mを測り、
来待石製五輪塔としては、
最大級のものである。
空風輪・火輪・水輪・地輪の
各石材の四方には薬研彫りによって
梵字が刻まれている。
また墓の前面には、
灯籠の基礎と見られる
四角形の石柱があり、
四方に仏像が陽刻されている。」
このように書かれています。
参拝。
正面。
薬研彫の梵字が良く分かりますね。
水鉢には堀尾氏の家紋、
分銅と六つ目結が陽刻されています。
お墓の巨大さを表現するため、
妻に立って貰いました。
山中鹿介幸盛公供養塔
堀尾吉晴の墓近くに、
尼子氏の忠臣、
山中鹿介幸盛公供養塔があります。
案内によると、
「幸盛公の遺徳をしのび、
慶長7年(1602)
堀尾吉晴公の
御内儀(妻)によって建てられた。」
このように書かれています。
まだ、松江城築城前で、堀尾氏が、
月山富田城にいる頃ですね。
供養塔の天辺には、
お地蔵様のようなものが
建てられています。
いったい何を意味するのでしょう・・・。
最後は本堂前にてツーショットで〆。