芙蓉之塔(岩川飛行場跡)
慰霊祭
芙蓉部隊105名が祀られる芙蓉之塔。
毎年11月11日には、
ここで慰霊祭が行われています。
慰霊祭が出来る場所と、
集まる人がいる・・・
戦後80年以上経過した現代において、
なかなか出来る事ではありません。
戦争を体験した世代がいなくなる中、
過去の戦争を伝え、
未来の平和に繋げることが出来る慰霊祭。
これを継続されていること、
実に素晴らしく、
有難いものだと感じています。
芙蓉之塔
曽於市埋蔵文化財センターの展示を見学後、
お隣に建つ「芙蓉之塔」へ。

芙蓉之塔入口に建つ案内板。

芙蓉之塔が建つのは、
岩川飛行場の発着地点です。
案内塔の側面には、
以下が記されています。
「八合原基地とも呼ばれ、
太平洋戦争末期の
昭和二十年(1945)に、
海軍夜間戦闘機隊の芙蓉部隊が利用し、
沖縄方面に出撃した。
昭和五十三年に「芙蓉之塔」が
建立され戦没者が祀られた。」

「岩川海軍基地施設配置図」

芝生が敷き詰められた
芙蓉之塔への参道。

「芙蓉之塔の由来」
以下、抜粋します。
「(前略)
日本の戦局は、昭和十九年になると
各地で苦戦を強いられた。
そこで、
軍部は打開の為に特攻作戦を採用した。
しかし、好転はしなかった。
その頃、東南アジアを転戦していた
海軍飛行隊の美濃部正少佐は、
特攻による戦果の低調なるを進言し
夜襲部隊編成を認めてもらった。
静岡県藤枝基地において正式誕生したが、
激しい米軍攻撃に対処する為、
昭和十九年から
岩川飛行場の急造に取りかかった。
昭和二十年五月に完成した岩川飛行場から、
彗星飛行機を主とする夜襲隊が
次々に沖縄方面に出撃した。
この作戦は、
昭和二十年八月十五日の終戦まで展開し、
藤枝基地以来百余名の戦死者を出した。
この「芙蓉之塔」は、その慰霊の為に、
生き残りの搭乗者や旧大隅町役場及び
地元有志により、昭和五十三年十一月に
建立されたものである。」
戦後33年の時に建立されていますので、
当時はまだ芙蓉部隊の元隊員や、
岩川で戦争体験をされた方々も
多くがご存命だった事でしょう。

まずは左側の観音様へ・・・

参拝。
位牌には、
「日本海軍芙蓉部隊
故美濃部正以下隊員之霊位」とあり、
その左右には歌が立てられています。
「夜の空へ飛び立つ君の想ひ知り
今を受け継ぎ国を護らむ」
「暗がりの夜空へ向かひ事為し
讃へは常に日の出なりけり」
二つとも夜間攻撃を詠んだ、
心に響く歌ですね・・・

芙蓉部隊指揮官だった
美濃部正氏の碑文で、
印象に残ったフレーズが
以下になります。
「青少年たちは戦いかつ激しい訓練を重ね
青春の花も知らず
同胞沖縄の救援に出撃を繰り返した」
これだけで十分伝わります・・

碑文の裏面「建立の由来」。
以下、抜粋・要約します。
「旧岩川飛行場は大東亜戦争末期に於ける
本土作戦の一環として昭和十八年
鹿児島県下数ヶ所の飛行場と共に計画され
昭和十九年着工。
当時の月野村を始め
隣接数ヶ町村の奉仕隊員並びに
郡内学徒動員を以て連日一千人以上が就労し
人力と畜力を以て昼夜を分たぬ突貫作業で
昭和二十年四月完成し、
五月には海軍航空基地として
芙蓉隊が配属され沖縄作戦に参加、
八十余君の未帰還者を生じ
終戦に至ったのであります。
昭和五十二年、戦後三十三年を経て
町内只一人の生存者平松○男君を通じ
全国生存者九十余名の切なる念願と
地元有志の奮起に応えて
多数の賛同を得て建立に至っております。
昭和三十三年十一月十一日」
この中で、
「人力と畜力」という部分、
米軍の機械化部隊とは隔絶した、
まるで戦国時代のようなやり方に、
改めてやるせなさを感じます・・・

芙蓉之塔へ参拝。

塔の下には戦没者の氏名が記されています。
日本を今に繋ぐ為に
命を賭して戦ってくださった
ご英霊の皆様、
どうか安らかにお眠りください・・・
今日の発見
芙蓉之塔の向かい側の茶畑で、
こんなものを発見しました。

真ん中が空洞の器具ですね!

恐らく茶畑の幅に合わせて
この細い道を跨いで、
作業する為のものでしょう。
僕たちが、こんなのどかな光景に、
心を向けられるのも、
芙蓉部隊はじめ多くのご英霊が
日本を護ってくださったからこそのもの。
何気ない日常は、
奇跡の積み重ねなんですから・・・