浜松城(静岡県浜松市)前編

 

幸運を掴む方程式?

旅の初日、

浜松は一日中雨でしたが、

この日は、

天守内部や大河ドラマ館など

どちらかと言えば、

「内覧」する時間が多く、

雨が降っていても

「ま、いっか~」位にしか

考えていませんでした。

自然に抗わず、

常に「ゆる~い」気持ちでいると

思わぬ幸運が舞い込むもの(笑)

僕たちがこんな考えを

持てるようになったのは、

5年前、出雲大社参拝時に

大雨が降った日のこと。

それ以来、

雨=ゆる~く考える=幸運が舞い込む

この方程式は概ね生きています。

勿論、今回も類にもれず、

翌日の朝、方程式は完結し、

より内容の濃い旅になったのです!

(詳細はまたの機会で・・笑)

鎧掛松

徳川家康が浜松で最初の城とした

引間城跡に建つ元城町東照宮を参拝後

東側に位置する浜松城へ歩き、

まずは、本丸南広場にある

「鎧掛松」を目指します。

引間城跡から見た浜松城。

浜松城公園園内マップ。

 

「鎧掛松」

案内を要約すると、

以下になります。

「元亀三年(1572)

三方ヶ原合戦から城に帰った家康は

鎧を脱いで大きな松に掛けたとの

伝承から、鎧掛松と呼ばれています。

この木は三代目で、

初代は浜松城内の堀のそばに

あったとされています。」

伝承はともあれ、

形が良くて、立派な松ですね!

浜松城の変遷(案内板)

次に寄り道しながら(笑)

天守を目指します。

本丸南広場からの天守。

この広場の端っこには、

お城好き垂涎の案内版があります。

屏風みたいなのが

ちょっとオシャレですね!

「浜松城の変遷Ⅰ」

左が、今川氏の支配下であった

飯尾氏などが居城した引間城時代、

右が、家康が浜松城として

拡張した頃で、

大きな違いは「東海道」が浜松城下に

付け替えられていることです。

「浜松城の変遷Ⅱ」

左が、

堀尾吉晴による織豊系城郭化の時代

(1590~1600)

「現在残る石垣は、

堀尾吉晴時在城時のものと考えられている」

このように書かれています。

堀尾さん、

浜松城、月山富田城

そして国宝松江城と、

素晴らしいお城を

現代に残してくれた凄い人ですね。

右が、徳川譜代による近世浜松城の時代

(17世紀前半以降)

「豪壮な天守は17世紀前半に

失われたとみられますが、

三の丸の拡張や大手門の新設などが

城下町の整備と一体となって行われました。」

このように書かれています。

1657年、江戸城の天守が、

明暦の大火で焼け落ち、

再建されなかった事で、

各地の大名たちは、

「天守」を建てなかったり、

「天守」でも「櫓」と命名したりと

かなり将軍家に

「気を使った」ようですので、

その頃、取り壊されたのかも

知れませんね。

(個人的な推測です)

「家康在城期の浜松城Ⅰ」

家康は29歳~45歳まで

浜松城を本拠地としています。

この間は、姉川の戦い

三方ヶ原の戦い、長篠の戦い

高天神城奪還

小牧・長久手の戦いなど、

有名な戦いだらけですね。

「家康在城期の浜松城Ⅱ」

武田氏との攻防が

分かりやすく表記されています。

これを見ると、

武田信玄が家康を三方ヶ原に

「おびき出した」という説も

ちょっと信憑性を感じますね。

真っ直ぐに浜松城に

殺到するかと思いきや、

平地で決戦をしかけるという

信玄の巧妙さを想像出来ます。

「家康在城期の浜松城Ⅲ」

「石垣や瓦葺き建物がない、

戦国時代の実用的な

土づくりの城であったと考えられます。」

この記述と絵から想像するのは、

佐賀県の吉野ヶ里遺跡です。

建物が、

「掘っ立て柱の板葺き屋根」とすれば、

ちょっと似ているかもですね(笑)

「家康在城期の浜松城Ⅳ」

発掘により

空堀の発見があったと書かれています。

浜松城の変遷(絵図)

浜松城の変遷がわかる表示として、

案内板に加え、大きな「絵図もあります。

どんだけ親切なんでしょう!

浜松市は(笑)

本丸と二の丸の間を進んでいきます。

こんな方々がお出迎え。

毎週日曜日しかお出ましにならない

「家康くん」ですが、

実は僕たち、この翌日(金曜日)

会っているんですね!

そのカラクリはまた次回以降の

ブログにて公表します(笑)

「浜松城の変遷」と書かれた大看板。

高さ3m位、横幅10mくらいでしょうか?

とにかく「一目瞭然」のわかり易さなんです!

「徳川家康在城期の

浜松城中枢部と城下町」

めっちゃ素朴さが伝わってきますね。

「堀尾吉晴在城期の

浜松城中枢部と城下町」

「天正18年(1590年)、

徳川家康は豊臣秀吉の命令で江戸城へ移り、

家康の旧領には秀吉の家臣の大名らが

配置されました。岡崎城に田中吉政、

駿府城に中村一氏、掛川城に山内一豊、

そして浜松城には堀尾吉晴が入りました。

(中略)

吉晴が建築した天守は、

現存する天守台の規模や、

後に建てた松江城天守を参考に

四重五階、地下一階だったと

想定されます。」

このように書かれています。

堀尾さんにとっては、

浜松城天守築城は、

いい意味で、

松江城天守を作る前の、

「シミュレーション」になっていたのかもと

思ったりしてしまいます。

「廃城時の浜松城中枢部と

遠州浜松城絵図・城下町」

「浜松城は譜代大名が治める

浜松藩の拠点として

三の丸の拡張や既存の建物の

整理・改修が行われました。」

このように書かれています。

平和な時代になり「実務的」に

改修したということでしょう。

若き日の徳川家康公の銅像

次に本丸の家康公の銅像へ。

ここからは堀尾さん時代の石垣と

天守門が見えています。

戦国時代の野面積み、

美しく保存されていますね。

そして、

この石垣の前に建つのが、

家康さんの銅像です。

「若き日の徳川家康公の銅像」

少し長い名前ですが、

分かりやすい名前でもあります(笑)

全身アップ。

家康さんが手に持っているのは、

「「勝草」と呼ばれた、

めでたい歯朶(しだ)」

と案内に書かれています。

歯朶を持っているお姿、

威厳が有る中にも

なんだかお茶目で、

実に素敵ですね!

後ろ姿。

真横から。

この後は、富士見櫓、

天守門、天守へと向かいます。

(続く)

 

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