弘前城(青森県)天守
現存12天守を完結
江戸時代に建てられた天守で、
現在までそのまま残るものは、
全国に12城にありますが、
僕たちはそのうちの11城を巡り、
あとは弘前城の天守を
残すのみとなっていました。
ただ、
僕たちの住む福岡から青森は遠いし、
連続の休みもとれないし、
なかなか行けないな・・・
なんて思っていたら
ラッキーにも
5日連続で休みが取れることに!
やはり強く思えば通じるもの、
これは神様が与えてくれた
千載一遇のチャンスとばかり
青森旅を決行。
結果、
いきなり現存12天守訪問が
完結する日はやってきたのです。
しかも
現存12天守訪問時全てが
「青空」で撮影できるという
青空連続記録(笑)も同時に完結でき、
ダブルで嬉しい弘前城訪問となりました。
パンフレット
まずはパンフレットを確認。
写真に使われているのは、
移転前の本丸石垣上に建つ天守です。
あと数年でこの姿に戻るとすれば、
また数年後にも訪問したいと
思ってしまいます(笑)
弘前城と言えば「桜」。
ここでは桜の紹介三昧となっていますね。
下乗橋
追手門から三の丸、二の丸を巡り、
いよいよ天守のそびえる本丸へ。
二の丸と本丸の堀の間に
架けられた「下乗橋」。
案内を書き出すと
「本丸と二の丸を結ぶ橋で、
この橋の二の丸側に下馬札があり、
藩士は馬から
降りるように定められていた。
築城当初、橋の両側は土塁板だったが、
文化八年(1811)に
石垣に直したものである。
以前は擬宝珠が十二文を
かたどったものであった。」
このようになります。
橋の右側は曳屋工事前、
天守が建っていた所。
石垣の修復は、思った以上に
大変そうな感じがします・・。
鶴と亀
下乗橋を過ぎ券売所へ。
全面スロープのバイアフリーという
優し〜い券売所です。
入園券。
版画家、棟方志功の地元青森らしく、
版画っぽいデザインになっていて、
味がありますね!
そして、
桜のスタンプには、
「6.6.6」の文字が!
たまたまですが、
弘前城の訪問は、令和6年6月6日。
なんとなくいい日に来たのかな?
ちなみに日本の硬貨を一枚づつ
全部足すと666円になるそうです(笑)
ここは天守への虎口ですが、
はやる気持ちを抑えて、
一旦停止(笑)
左側の石垣。
野面積みですが、
角は原始的な算木積みですね。
そして、一般的な見所は、
この石垣の手前の「松の木」です。
樹齢300年の松。
このグニャグニャ感、
何かに似てるような?・・・
この案内で「似ている何か」が判明。
案内板の上、弘前市の市章「卍」
何度見てもかっこいいな〜!
と、
それはさておき松ですね(笑)
「アイグロマツ」
「由来
鷹揚園内随一の名木である。
老鶴形に仕立てられ
美しく優雅な形をしているところから
「鶴の松」とよばれている。
向いの石垣の中心に
「亀の石」とよんでいる大石があり、
並び称されている。」
お〜鶴の形だったか〜!
しかも対面には「亀」もいるとは、
「鶴と亀」、
縁起がいいにも程がある(笑)
亀石と妻。
「鶴亀のご利益ゲットだぜい!」
ってポーズかな?(笑)
天守展望台
虎口を入ると、
いきなり天守を見るための
展望台が出現します。
天守展望台から見た天守に
テンション爆上がり!
岩木山の頭は雲に隠れていますが、
めっちゃ青空だし、
もう大満足です(笑)
乗りまくって、
ここでツーショット完了。
天守外観
展望台から降りて、
天守を一回り。
天守の壁の四面中、
本丸の外側から見える二面のみに
あしらわれた千鳥破風。
外に向かって権威を見せる事と、
経費節減を両立するための
努力には頭が下がります・・。
そして、
遂に現存12天守完結と思うと
過去に訪問した、
僕の脳裏に蘇ってきます・・・
妻は、ほぼ忘れているでしょうが(笑)
東側正面。
曳屋で移動して、
本丸にポツンと置かれている姿、
なんだか宇和島城の天守を
彷彿とさせてくれます。
こちらは本来姿が、「ポツン」(笑)の
宇和島城天守。
こんな貴重なコラボ?ができるのも
弘前城天守が石垣上に戻されるまでの
あと数年間ですね。
天守への入口は西側。
ここに千鳥破風はなく、
シンプルな三階櫓といった感じです。
天守内覧
次は天守内の散策です。
重厚な扉が防御能力の高さを
誇示していますね!
一階の展示。
以下、
パネルと案内文の超訳と抜粋です。
津軽藩初代・津軽為信によって計画され
二代・信枚によって慶長16年(1611)
に築かれた。
弘前の街全体を「城」とした構想で、
池や寺社を防御として配置する。
二代・信枚が建てた
最初の天守は五重でしたが、
寛永4年(1627)落雷により焼失。
現在の天守は九代・寧親が、
幕府に「三重櫓」と言って許可をもらい
建てたものである。
三つの櫓と五つの門は、
慶長16年(1611)の
築城当初から残るものである。
石垣の孕みにより
天守が傾いたことから
根本的に修築することが決定した。
曳屋工事について。
曳屋工事での移動経路。
鉄砲狭間。
壁の厚さは、
約30cm(内側は約33cm)あり、
内壁と外壁の間に
直径 6cmぐらいの石(栗石ぐりいし)が
壁の中にぎっしり詰め込まれています。
これは、
鉄砲の弾が城内まで貫通するのを防ぐ、
防弾の役目を果たす
しかけとなっているものです。
天守曳屋の軌跡。
市民参加型で曳屋をやっています。
弘前市の皆様、
貴重な体験ができて良かったですね!
曳屋グッズの展示。
妻も曳いております(笑)
津軽氏は箔をつけるため、
近衛家と親密になっていたようです。
やはり「強い政治力」があったからこそ、
転封の危機をも乗り越え、
弘前藩主として
あり続けられたのでしょう。
二階から三階へ。
西側の狭間から見た岩木山。
岩木山は三つの山から
構成されています。
なので、
「岩木山神社」は「三所権現」として
崇められてきたのですね。
雲がかかるも
狭間から雄大な岩木山を堪能。
妻は鉄砲隊を堪能(笑)
天守内覧の最後は、
桜満開のポスターで
弘前城と岩木山を堪能。
う〜ん、桜の季節の弘前城、
たまらんだろうな〜(笑)
(続く)