吉田城(豊橋市)内覧編1

思い残すことはない?(笑)
吉田城鉄櫓(くろがねやぐら)
拝観無料というのが申し訳ないほど、
鉄櫓内の展示内容は深く広く、
興味をひくものばかりでした。
また、豊橋市役所13階と同じく、
「体験コーナー」も設けられていて、
思い残すことはないほどに(笑)
充実した時間を過ごせたのです!
パンフレット
まずはパンフレットから。
やはり豊橋市にとっての吉田城は、
後年、姫路城を建てた池田輝政の城。
表紙には池田家の家紋、「揚羽蝶」が
燦然と輝いていますね!
内面には、驚くべきことに
全パネルのリストまでが
掲載されていて、
親切この上無しですよ。
いつもお世話になっている
お城の詳しい〜いサイト、
攻城団のパンフもありました!
1F 城内案内
空堀で遊び(笑)鉄櫓の外観を楽しみ、
櫓内の展示へと向かいます。
望楼型の櫓、なかなか渋いですね!
入城。
1F城内案内
受付でパンフレットを頂き
館内観覧を開始。
「吉田橋
・・・豊川の下流に臨む今橋は
吉田とも呼ばれる。
・・・鎌倉時代のなかばに
豊橋の河口近くに橋が架けられたので、
今橋、と呼ばれ続けた地を、
吉田、と呼び換えた牧野氏は、
自家の威勢とその地の私有を
強調したかったに違いなく、
外からそれを認めるものは吉田と呼び、
認めないものは今橋と呼んだ。
というのがこの時期である。
ーー今橋の牧野のうしろには、
今川がいる。
すなわち松平清康が
今橋城を攻めるという事は、
今川に戦いを挑むという事である。
今川氏は足利氏の親戚といってよいから、
・・・松平清康の戦いかたは
電撃のようであるときく。
西三河の過半を制したばかりの清康が、
今川氏の傘下というべき
東三河に踏み込むのは、
確実な勝算があってのこと、
とみるべきである。
たとえば、きたるべき戦いで
松平清康が勝つとしよう。
しかし、問題はそれからである。
東三河の奪回にむけて
今川氏が大軍を擁して動けば、
清康についた者は
ことごとく討たれるかもしれない。
本当の勝負はここにある。
直木賞作家 宮城谷昌光
新潮社「風は山河より」第一巻 今橋城より
(松平清康は徳川家康の祖父)」
吉田城のなんたるかを言い表した
素晴らしい文章ですね!
松平清康は勇猛かつ信心深い人。
僕たちはこの前日、
清康さんが建立した大樹寺の多宝塔を見、
お墓にも参ったばかりです・・
「拝啓
今川さん
武田さん
秀吉さん
家康さん
貴方が欲しがった
吉田城は
笑顔が集まる憩いの
名所になりました
敬具」
これも心に沁みますな〜(笑)
2F 吉田城の歴史
2Fと3Fでは、
吉田城の築城から廃城までを
残された絵図を中心に
パネルで詳しく紹介していますので、
気になるところを
抜粋・要約して行きます。
「1505年、
牧野古白が今橋城として築城。
1564年、徳川家康が奪取し
酒井忠次が入る。
1590年、池田輝政(当時は照政)が入り
近世城郭へと改修、城下町を整備。
池田輝政は関ケ原の戦い後、
姫路に転封し、姫路城を築く。
江戸時代は譜代大名が入れ替わり入り
明治維新を迎える。」
「牧野古白は築城の翌年討死し、
以降、家康の白になるまで、
熾烈な争奪戦が繰り広げられる。」
争奪戦の地図。
争奪戦を描いた古絵図。
合戦図がこんなに残されるのは、
やはりここが激戦地だったからでしょう。
ここで酒井忠次さんも登場(笑)
「1575年の長篠の戦いで
活躍した酒井忠次は、
戦いの後、信長から
「背に目を持つごとし」と賞賛され、
革羽織(かわばおり)を
褒美として授かりました。
白色の皮に、裏地は朱色の絹地、
見返しは草花模様の金襴、
裾に赤黒の亀甲の織田家の家紋が
描かれています。
お洒落なデザインは
信長の好みと言われています。」
やはり酒井忠次の提案で、
長篠城の背後、
鳶が巣山の急峻を登って、
武田の砦を奇襲攻撃し、
奪取したことが、
鉄砲三段撃ちで有名な
設楽が原での織田・徳川連合軍大勝利を
呼び込んだのですから、
革羽織GETは当然かも知れません(笑)
1990年の小田原征伐後、
徳川家康は関東へ移封後、
吉田城に15万2千石で入ったのが
池田輝政です。
ちなみに家康が空けた主な城は
以下の豊臣大名が入っています。
浜松城は堀尾吉晴、吉田城は池田輝政、
岡崎城は田中吉政。
関ケ原までのわずか10年で、
秀吉配下のこの武将たちが
今に残した功績は素晴らしく、
また、その後の転封先でも、
国宝の松江城(堀尾吉晴)、
姫路城(池田輝政)を築城するなど、
秀吉は本当に有能な人材を
抱えていたんだとつくづく思います。
付け加えれば、
家康から秀吉に寝返った石川数正も
国宝の松本城を築城を始めていますし、
もっと言えば、
同じく国宝の彦根城の天守も
秀吉配下の浅野長政が築城した
大津城から移築されたもので、
やはり秀吉の「人を見る目」は、
人並外れていたのでしょう。
縄張り図。
本丸と二之丸御殿。
池田輝政は吉田城の
近世城郭への改修で多くを学び、
その集大成が姫路城になったのかも
知れません。
五重の天守は想像ですが、
概ね縄張りに沿って
描かれているようです。
武家屋敷。
御殿。
「天守がなかったけど
天守と書かれているものが七枚ある」
見栄?それとも実はあった?
三河吉田図。
刻印が有名なのですが、
僕たちは見ていません(涙)
江戸時代中期までは城主交代が、
猫の眼のように頻繁ですが、
寛延2年(1749)に
大河内松平家が入って
明治維新まで続いています。
「東海道では岡崎の「矢作橋」、
滋賀県大津市の「瀬田の唐橋」と共に
重要な橋の一つに数えられ、
修理・架け替え等は
幕府が直接行いました。」
宝永地震破損所絵図。
城の修理はまかり間違えば、
「改易」ですから、
詳しく、正しく描かれたのでしょう。
宝永の地震では富士山も爆発して、
宝永噴火口と宝永山ができ、
現在もそのままの姿を見せています。
以前、飛行機から撮影したもので、
ボコっと開いた穴が宝永噴火口で、
その右側が宝永山です。
明治期の大手門。
明治初期、
こんなにちゃんと残っていたのに、
ちょっと勿体無い気がします・・・
廃城後は陸軍の土地に・・
甲冑。
本丸の模型。
冠木門側から。
鉄櫓、豊川側から。
北東側から。
ここまでで2Fの展示観覧は終わり、
3Fへと向かいます。
(続く)